~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
しん ぼう  ♪
摂津国清澄寺せいちょうじという山寺に、もと叡山の学僧で、慈心房尊慧そんえという人がいた。あるとき、夢うつつに法華経を読んでいると、五十歳見当の男が、手紙を持ってやって来た。
尊慧がそれを開けてみると何と閻魔えんまの庁からの招待状である。閻魔の庁では大法会が行なわれるから、参加するようにというのである。尊慧は承諾の書いたところで目が覚めた。とにかく余り気味の良い話ではない。彼はその日になるまで、念仏三昧に日を送っていた。当日午前零時近くになると尊慧はひどく眠気を催してきたので、お勤めを終えて、僧坊に帰り寝所に入って寝た。二時頃閻魔の庁からの使いの者にゆり起こされた。
いつの間にか、七宝しっぽうで飾った車に従者まで用意されている。尊慧が乗ると、途端に、車は西北の空に向ってかけのぼった。
七宝で出来た閻魔大王の宮殿は、広さも広し、高さも高い。金色に光り輝く美しさは、とても言葉ではいい尽くせぬほどであった。地獄の役人たちは、みな閻魔の前にかしこまって居並んでいた。その日の法会も終わって帰りかけた尊慧は、
「ここまで「来たからには、ついでに、未来のことも聞いておこう」
そう思い立つと、大王の側に近づいた。
「他のものは、皆帰ったのに、何故、貴僧だけここに参ったのじゃ」
「実は、私の死後のことを知りたく思いまして参上いたしたのですが」
「往生すいるもしないも、信仰一つじゃよ。そうじゃ、そなたの一生の行ないの書かれてある作善さぜん文箱ふみばこをみせよう」
地獄の役人が、大王のいいつけで文箱を持って来ると、ことごとく読み聞かせた。尊慧の一生のうちの出来事も、頭の中で思ったことも何一つとして洩れなく記されていた。
尊慧は涙を流しながら、
「何卒悟りを得る道をお教え下さい」
と頼んだ。すると大王も同情して、
妻子王位ざい眷属けんぞく
ればいつきたって相い親しむ無し
常にしたがえる業鬼ごうきは我を繋縛けいばく
苦しみを受け叫喚きょうかんすること辺際へんさい無し�
という偈際を読んで、繋慧 に与えた。繋慧はひどく喜んだ。
「日本の平清盛と申す人は、摂津和田の岬四面十余町に家をつくり、本日の法会のように、数多くの持経者じきょうしゃを呼んで、説法、勤行ごんぎょうを務めております」
と言うと、閻魔も大変喜んで、
「うん、あの人は、ただ人ではない、実は慈慧じえ僧正の生まれ変わりで、天台の仏法を護るため、日本に再誕せられた人なのじゃ。私も日に三度は彼に礼を尽くして、経を読むのじゃ、ここにその文句がある。持って帰って、清盛公に差し上げてくれ」
敬礼きょうらい慈慧じえ大僧正だいそうじょう
天台てんだい仏法ぶっぽう擁護者ようごしゃ
示現じげん最初さいしょ将軍しょうぐん
悪業あくごう衆生しゅうじょう同利益どうりやく
尊慧は、これを貰って帰ると早速、清盛のところに行き、ありのままに話した。清盛は大喜びで、いろいろ尊慧をもてなした上、引出物までも贈った。後に彼を律師りつしとした。以来、清盛のことを慈慧僧正の生まれ変わりだという説が流布るふされたのである
2024/03/04
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