~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
すの また 合 戦  ♪
清盛が死んで間もなく、生前、清盛と親交の深かった五条大納言ごじょうだいなごん邦綱くにつなが亡くなった。
同じ日に病床に就き、同じ日のうちに死ぬとは、又めずらしい契りの深さである。清盛は自分の子、四男頭中将とうのちゅうじょう重衡しげひらを大納言の婿にしている。
二月二十二日、法皇は、院の御所、法住寺殿に御幸になった。この御所jは、去る応保三年に造営され、比叡、熊野の両社も近くにお祭りしてあり、庭の木、池の水にいたるまで、法皇のお気に召すように心して作られたものであったが、清盛のため、心ならずも離れていられた間に、邸内はすっかり荒れ果ててしまっていた。
せめて修理してからでも、お出で下さいという宗盛の頼みも断わり、「そのままでよいから」と仰有っての御幸であった。
故建春門院の住まわれていた御殿のあたりも、すっかりさびれ、心なしか松や柳まで年をとったようである。池の芙蓉ふようにも、岸の柳にも、一つ一つ想い出のないものはなく、涙なしには見ることも出来ないのであった。法皇は、白楽天の長恨歌の一節が今しみじみと思い出されて来るのであった。
三月に入ると、南都の僧の罪が許され、知行も元通りという命令が出た。又大仏殿の再建が始まることとなり、係りの奉行に、左少弁さしょうべん行隆ゆきたかが任じられた。行隆が先年男山八幡宮へ詣でた時、こんな夢を見た。
「大菩薩の使いでまいった。大仏殿再建の奉行に任じられ時はこのしゃくをもて」
と言って笏を置いていった夢である。目覚めてみると、確かに笏が置いてあった。
「不思議なことじゃ、今どき何の必要があって大仏殿の奉行になるわけもない」
と思ったが、とにかく、笏を持って帰り、大事にしまっておいたのであるが、夢はまったく現実になったのである。
三月の十日、美濃国から早馬のお使いが飛んで来た。
「東国の源氏は尾張国まで攻めのぼり、道路の通行を止めました」
この知らせに、平家方も落着いていられず、左兵衛督しゃひょうえのかみ知盛とももり左中将さちゅうじょう清経きよつね小松少将こまつのしょうしょう有盛ありもり を大将軍として三万余騎の軍勢が、尾張国目指して出発した。
迎える源氏は、十郎蔵人じゅうろうくらんど行家ゆきいえ、頼朝の弟で、卿公きょうのきみ義円ぎえんを将軍にして六千余騎、尾張川を挟んで対陣した。
夜半に入って、源氏方は、尾張川を渡って夜討ちを仕掛けて来た。戦は翌日の明け方まで続いたが、平家の方は少しも慌てず、
「敵は、川を渡ってまいったのだから、馬も人も濡れているはずだ、それを目当てに討ち取れ」
と下知したので、平家は多勢を頼んで、源氏を取り囲み、
「あますな、もらすな」
と攻め立てたので、源氏方は次第に敗色の色が濃くなってきた。
行家は危ない所を命からがら逃げ出したが、義円はついに討死した。
平家は源氏の残党を追い、勢いに乗じて川を渡り、そこかしこで最後の防戦をつとめる源氏の者どもを討ち取った。
「兵法にも、川を後にするなと書いてあるのに、源氏のやり方はまずかった」
と世間では言っていた。
やがて、十郎行家は、今度は、三河国で矢作川やはぎがわの橋を取り、防戦の準備を整えて待っていた。平家の軍勢が押し寄せたが、またたくうちに攻め落され、その後、三河、遠江一円は、すっかり平家の手中におさまるかに見えたが、惜しいことに、知盛が突然の病を得、急ぎ都へ帰ったので、結局、先陣一つを破っただけで、今回の勝利は余り効果をあげることが出来なかった。
前年、重盛が死に、今また、清盛にかれ、平家の勢は日に日におとろえる一方で、昔から恩顧のある者のほかは、今やすべて源氏に随いつく世の中であった。
2024/03/05
Next