~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅲ』 ~ ~

== 現 代 語 訳『平 家 物 語 上』 ==

著 者:尾崎 士郎
発 行 所:株式会社 岩波書店
しわがれ ごえ  ♪
越後国の住人、城太郎助長は、越後守に任ぜられ、お礼返しの意味もあって、木曽征伐の軍を起こした。
ところが夜中になって、急に暴風雨が吹きまくり。時ならぬ雷まで鳴った。暫くして雨があがると天の彼方かなたから、不気味なしわはれ声が聞えて来た。
南閻浮提金銅なんえんぶだいこんごう十六丈の盧遮那仏るしゃなぶつを焼き滅ぼした平家に味方する者が、ここにおる、召し捕れ」
と三声叫んだのである。その声には聞く者の総身をおじけさせるものがあった。
「こんな恐ろしいお告げがございましたのですから、このたびだけは思い留まられた方が身のためです」
と止める者が多かったが、助長は、
「弓矢取る者が、一々おじ気をふるっていてはつとまらぬ」
と言って取り上げなかった。
翌くる朝、城を出た軍勢が十四、五町も行かないうち、黒雲が助長の馬上を取り囲んかとみるまに、助長はふらふらと落馬した。慌てて、輿に乗せ城に連れ帰ったが、三時間ばかりで息が絶えた。この知らせに京の平家一族は色を失った。
七月十四日、年号が改まって、養和となった。同日、筑後守貞能は、鎮西の謀叛の征伐のため西国へ下った。同じくその日、治承三年に無実の罪で流された人々が許されて都に帰って来た。即ち、関白基房、太政大臣師長、按察あぜち大納言資賢といった面々である
師 長は久し振りに院の御所に上り、秋風楽しゅうふうらくの曲などを奏したのであった。師長は以前土佐から許されて帰った時には賀王恩がおうおん還城楽げんじょうらくを院の前でお聞かせしたことがあった。その時々に応じて、いかにもふさわしい曲を選ぶ心がけは、師長ならではと人々は噂しあった。同じ日、按察大納言も、久し振りに院の御所へ伺候した。
「お前の顔をもう一度見られるとは、夢のようじ、田舎住いで歌も忘れたろうが、久し振りに今様いまようでも一さし舞ってみせてくれぬか」
大納言は即座に立ち上がると、「信濃にあんなる木曽路きそじ川」という今様の文句を、「信濃にあった木曽路川」と、自分が見て来たところだけに当意即妙に歌いあげた。いかにも才気あるやり方であった。
2024/03/05
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