~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
二条中洲なかす の決闘 (二)
歳三は、二条堤にじょうつづみ に降り立った。
「いいあんばいな月だ」
眼の下の鴨川かもがわに月が落ち、瀬にきらきらと光っている。対岸にはわずかに町並があるのだが、すでにが消えていた。
この当時、二条の橋というのは、三条のように一本渡しの大橋ではない。鴨川中洲まで欄干も手すりもない板橋が一つ。
さらにその中洲から向う岸まで、第二橋がかかっている。その第一橋と第二橋の間の中洲は、あしや秋草がしげっていた。
歳三と七里は、その中洲へ出た。草を踏むたびに虫の音がやんだ。
「七里、抜け」
と歳三は、草を一本、口にくわえた。
「ほう、もうやるのかね」
七里は、落着いている。なかまの来着を待っているのだろう。
「土方、冥途へいそぐことはあつまい。なんなら、国許への遺言でも聞いておいてやろうか。・・・・いや、それより、例の」
「ああ、お雪のことかね」
歳三は、先手を打った。
「そう。あれはいい女だな。そのお雪とやらに申し残すことはないか」
「お前、親切だな」
歳三は、草をんでいる。どこかで鈴虫が鳴いているのを、じっと聞いていた。
「土方、念のために言っといてやるが、おれも武州八王子のころの腕ではないぜ。これでも京では人斬り研之助といわれた男だ。人の二十人は斬っただろう。その「中に、新選組が七人、見廻組みまわりぐみが二人」
「結構なことだ」
このころ、隊士が市中でしばしば斬られる。七里らの仕業かも知れない。
その時、ふと板橋のきしむ音が、遠くでした。
東岸から第二橋へ、西岸から第一橋へ、それぞれ人影が渡りつつある。あわせて七、八人の人数はいるだろう。
「土方。まずい。人が来たようだ」
と、七、八間むこうの草むらの中で、七里研之助がちょっとはずんだような声で言った。
「ああ、来たようだな」
と歳三は素早く羽織を脱ぎ捨てた。この喧嘩けんかなれた男は、それが、七里の人数だと直感された。人数が来着するまでに七里を切り捨てんなければ、とても勝目がない。
はかまのももだちをとった。下げ緒で、、くるくるとたすきをかけ、
「七里、参る」
ツツと進んだ。歳三は鯉口こいぐちを切った。刀は愛用の和泉守いずみのかみ兼定かねさだである。
脇差わきざしは、堀川国広。
きらり、と七里の草叢くさむらから淡い光がひかった。抜いた。
七里は上段。
歳三は、いつも平星眼ひらせいがんで、近藤、沖田とおなじ癖の右寄り。歳三はこの癖がいっそうひどく、左籠手こてがほとんどあきっぱなしになっている。
七里、間合を詰めた。
そのとき、人数が両橋を渡りきって、中洲の七里のそばにかたまった。
みな、黙って抜きつれた。
(まずい)
と、歳三は思った。七里の素朴そぼくすぎるほどの策に、自分ほどの策士が乗った。武士だ、おれとお前とで ──、と七里は言った。歳三の性情を見ぬいている。武士だ、と言えば、この百姓武士が気負い立って乗ることを見ぬいていたのだろう。
(近藤を笑えねええよ)
歳三は、自分が腹立たしくなった。おれがわるいのさ。七里研之助のような上州の百姓あがりの剣客と、武州の喧嘩師の自分とが、
── 武士の約束。
などというのは、滑稽劇にわかではないか。武士の約束、なんざ、と歳三は思った。三百年家禄かろくで養われ、儒教や作りものの徳川武士道で抜けのようになっている門閥武士どもが口頭禅で、自分や七里、長州の過激連中といった乱世の駈け歩きどものひっかつぐべき御輿みこしじゃねえ、と思った。
2024/03/08
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