~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
菊 章 旗 (三)
(おどろいたな)
歳三は、しかし、例の眠ったような表情でいる。
(時勢だ、見かけはそうでないものまで、時の「勢いへかたむく)
幕府は日々衰えつつある。天下の志士、比々ひひとして侮幕、討幕論を説かざるはない、という形勢になっている。腹に五月さつきの風が吹き通っているような藤堂平助でさえ、こういうことになるのであろう。
「平助、君は ──」
近藤はにこにこして言った。
「やはり伊東さんとはおなじ御用かね」
「そうです」
藤堂は、首筋をかいた。そんな癖のある、一見無邪気な男なのである。
「みなさん、お平らに」
近藤は、ちかごろ、如才がない。諸藩の公用方と、祇園ぎおんなどで茶屋酒を飲んでいるせいだろう。
「さて、伊東さん、伺いましょう」
「申します。今日は、腹蔵なく天下の大事を論じ、隊の今後の行き方を検討したいと存ずるので、時に言葉が矯激きょうげきにはしるかもわからない。御両所、あらかじめお含みおきくださるように」
「どうぞ」
近藤は、微笑をひきつらせた。
「土方さんもよろしいな」
「ああ、結構です」
と歳三は言った。
そのあと、伊東は天下の形勢をとき、さらに例をシナにとって夷国の野望を説き、
「もはや弱腰の幕府では日本を背負えぬ。政権を朝廷に返上し、日本を一本に統一して外蝦夷にあたらねば、日ならず、清国しんこくのごとく悲惨の目にあうだろう。新選組のそもそもの結盟趣旨は攘夷にあった。ところが世上のうわさには、幕府の爪牙そうがに堕しているという。つめどころか、幕府に取り立てられているという噂がある。おそらく事実でないと私は信ずる、近藤先生、如何」
「───」
「いかがです」
「私も、その噂は聞いている」
近藤は、苦しそうにそう言った。
今日も、二条城でその話があり、近藤も伊東一派の意向を聞いてから、ということで確答を保留してきているのである。
「単にうわさですか」
「さあ」
「いや、よろしい。問題は今後の新選組のことだ。天朝様の親兵として、また攘夷の先陣さきがけとして働くかどうか」
近藤は、がんとして佐幕論をとった。
「拙者は、天朝様を尊崇したてまつっている」
と言った。当然なことで、だからといって近藤が尊王絶対主義にはならない。尊王論は当時の読書階級の武士はおろか、医者、僧侶そうりょ庄屋しょうや、大百姓にいたるまでのごく普遍的な概念で、政治上のイデオロギーではない。
「しかも、あくまでも、攘夷を貫き通すつもりでいる」
これも当然なことだ。当寺開国論を唱えていたのはよほどの先覚者で、奇人か、国賊扱いにされていたのである。
「が、伊東さん」
ここからが、近藤の所論だ。
「武権は、関東にありますよ」
「それは」
「いや、その武権も、東照大権現だいごんげん(家康)いらい征夷大将軍せいいたいしょうぐんということで朝命によって命ぜられた御役目である。現実にも、三百諸侯を率いて立っている徳川幕府こそ攘夷の中核たるべきで、聞くところではフランス皇帝でさえもそれを認めている」
「ははあ、フランス皇帝も」
伊東は、近藤の飛躍に驚い。第一、フランス皇帝うんぬんを持出すことからして攘夷的・・・ではなく、幕府のなしくずし開国外交に同調している証拠ではないか。
「土方さん」
伊東は視線をゆっくりまわした。
「なたはどう思われます」
「おなじさ」
面倒臭そうにそう言った。
「なんと?」
「ここにいる近藤勇と、ですよ」
「佐幕、ですな」
「さあ、ぢんな言葉になるのかねえ。私は百姓の出だが、これでも武士として、武士らしく生きて死のうと思っている。世の移り変わりとはあまり縁のねえ人間のようだ」
「つまり、幕府のために節義をつくす、それですな」
「それ」
一言、言った。
あとは、何も言わなかった。こういう時勢論や思想論議は、あまり得意なほうではない。
世がけた。
両論対立のまま、別れた。
2024/03/10
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