翌朝、伊東甲子太郎と篠原泰之進は、最後の談判をするため、ふたたび興正寺下屋敷、近藤と歳三と会合した。
「御両所」
一本気な篠原が眼をすえた。
「いい加減に眼をさまして頂けんか。今日は、御両所の眼がさめぬとあれば、われわれ一同、隊を割って独自の道を進む覚悟で来た」
── 篠原泰之進(維新後、泰林親)の当夜の手記が残っている。
「また翌二十七日夜、余が輩(わが派)罷越まかりこし、今夕彼等服せずば、首足しゅそく、処ところを異ことにせんと」
その場で、近藤、土方を斬るつもりでいたのだが、相手に隙すきがなく、斬りつけるに至らなかった。
「(余)憤心頭髪侵すの勢にて議論せしも、なほもって、(かれらは)分離を沮はばみ、服せず。彼等(近藤・土方)徳川の成敗(ここは失政という意味か)を知らず、勤王の趣旨を解せず、ただついに、武道をもって人を制せんとするのみ」
と近藤と歳三の本質を衝つき、さらに伊東がその論才を縦横に駆使して二人を追いつめ、
「終ついに余が輩の術中に陥入り、分離論に服す」
本当に服したかどうか。
とにかく両派は、袂たもとをわかつことになった。
とはいえ、伊東らがすぐ新選組を去ったわけではなく、しばらく屯営に起居していた。
この間隊内大いに動揺し、ぞくぞく伊東派への共鳴者が出た。
暮夜、ひそかに歳三は近藤の真意をたずねた。近藤は、だまって、愛用の長曾禰ながそね虎徹こてつのツカをたたいた。
歳三はうなずいて、からっと笑った。
これを篠原の手記風の文体で書くと、
── 喋々ちょうちょうヲ要セズ、剣アルノミ。
というところだったろう。
新選組実働部隊は、十番隊まである。そのうちの八番隊、九番隊の指揮官藤堂、鈴木が脱ぬけたことになるのだが、この伊東、篠原の離脱声明の翌々日、はやくも動揺があらわれ、意外にも伊東派とさほど親しくなかった武田観柳斎が、単独離脱した。
伊東は薩摩藩と親しい。薩摩藩との渡りがついたので離脱表明したようなものである。武田は、武田で個別に薩摩藩に接近していた。
「武田君は、近頃薩摩藩邸にしきりと出入りなさっているそうだが、時節から結構なことだ。いっそ、そちらへ参られてはどうか」
と、近藤は、隊の幹部を集めて送別の宴を催し、夜、屯営の門から武田を送り出した。
隊士二人に送られて、武田観柳斎は花昌町を出た。
隊士のひとりは,斎藤一。
竹田街道銭取橋ぜにとりばしまでさしかかったとき斎藤、抜く手もみせず、武田の胴を斬りあげ一刀で即死させた。
── 脱隊は、死。
隊法は生きている。
武田観柳斎の斬死体ざんしたいは、伊東派に対する近藤と歳三の無言の回答といっていいし、戦の宣言とも言えた。
その年の春、孝明天皇崩御。
翌慶応三年三月十日、伊東派は、その御陵衛士えじという役を拝命し、高台寺の台上に菊花紋章「の隊旗をひるがえし本陣とした。
隊名は優しいがじつは勤王派新選組というところだろう。
(戦だな)
歳三はこの日、和泉守兼定の一刀を研とぎにやった。
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