~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
お 雪 と (一)
そとは、六月の雨。
歳三は、お雪の家の縁側へすわって、ぼんやり庭すみの紫陽花あじさいを見ていた。
「ことしは梅雨つゆがながい」
つぶやいた。伊東甲子太郎らも東山高台寺で、この雨をながめているだろう。
「───」
と、背後でお雪は顔をあげたらしい。
が、何も言わずに、ひざもとの針へ視線をおとした。
縫っている。そのひざの上のものが左三巴ひだりみつどもえの歳三の紋服であることを、彼は知っていた。が、お雪も歳三も、これについて一言も会話をかわしたことがない。
(妙なものだ)
歳三は、思った。
こうして、雨がらしている一つ屋根の下に静もって・・・・いると、ふと、ながい歳月を送って来た夫婦のような気がするのである。
が、お雪とは、男女のつながりはない。歳三が求めようとしないのだ。
この男は、女を抱き終えたあとの寂莫せきばくの想いがひとよりもはげしくできている自分を知りぬいていた。それがいままでの歳三の恋を、──
いや、恋とも言えぬが。
不幸にしてきた。
(おれという男は、女を見ながらそれを抱かずに静かに端居はしいしている、そんなふうにしか、まっとうな恋が出来ぬ男らしい)
庭はほんの三坪しかない。
市中の借家らしく、すぐ眼のそばが板塀いたべいでむこうは他人の家になっている。
「紫陽花は、狭い庭に似合いますな」
皮肉ではない。
「そうでしょうか」
お雪は、糸を噛んだ。
「わたくしは、江戸定府じょうふ御徒士おかちの家に生まれて同じ家格の家に嫁いだものですから、庭といえばこういう狭い市中の庭しか存じませぬ。実家にも、紫陽花は植わっていました」
「ああ、そういえば。お雪さんは紫陽花ばかりを描いているようだ」
「飽きもせずに」
お雪は、肩で笑ったが、声をたてないから背をむけている歳三にはわからない。
「御亭主も、紫陽花がお好きでしたか」
歳三には、淡い嫉妬しっとがある。
「いいえ」
お雪は顔をあげずに言った。
「好きでも嫌いでも。・・・ひょっとすると自分の家の庭に紫陽花が植わっている、なんてことも気づかずに死んだのではありませんかしら」
「この花とは、他人だったわけですな」
「だけでなくわたくしの絵とも。──」
「他人だった」
「ええ」
お雪の声が小さい。
短い結婚生活だったようだが、お雪は亡夫と心の通う場所がなかったのではあるまいか。
歳三は雨を見ながら、あれこれと想像している。
「どういう御亭主でした」
かいでのもとを、と思いながら、歳三はつい訊いた。が、歳三がふと想像したとおりの態度を、お雪は、強い語調で示した。
「好いひとでしたわ」
たとえそいの生前、故人への不満があったとしても、死んでから悪口を言うような女ではない。
「そうでしょう。私は妻というものは持ったことがないからわからないが、夫婦とはいいものらしい」
「・・・・・」
お雪は、ことさらに相手にならない。
「兄が言っていましたが」
と、歳三はまた 故郷 くに の話だった。
「おらァの かかァ とは、足の裏で話が出来る。昼寝をしていても、嬶は足の裏を見ただけで、ああ、水がほしいんだな、とか、いま何かで腹を立てている、とか」
「まあ」
お雪はやっと声をたてて笑った。
「それは為三郎お兄さま? それともおなくなりになった 隼人 はやと さま?」
「いや、大作という末兄ですよ」
「ああ 下染屋 しもそめや (都下府中市)のお医者さま」
お雪は、歳三の兄姉や家族をみな覚えてしまっていた。末兄大作は、歳三と六つちがいで、下染屋村の 粕谷 かすや 仙良という医者の養子になり、 良循 りょうじゅん と改名している。
医者には惜しいほどの剣客で、近藤の養父周斎に幼少の頃から手ほどきを受け、目録まですすんだ。
詩才もあった。山陽ばりの詩を作り、詩のほうの名は、玉洲、修斎と号した。だけでなく能書家でもあり、近在の 素封家 そほうか にたのまれては、襖などに 豪宕 ごうとう 書を書いた。現在でもこの地方には、多少、良循の書が残っている。
2024/03/11
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