~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
お 雪 と (三)
が、伊東甲子郎ほどの男である。かならずしも「心中、薩摩藩の走狗そうく、というところにあまんじていなかったであろう。
「天皇の旗本」
というつもりであった。これはかつて清河八郎が構想した奇想天外な案だが、実現せずに清河は死んだ。
天皇には、兵は一兵もない。家康が持たさなかった。徳川体制では、兵は将軍と大名がもっている。
伊東甲子太郎一派は、天皇の「私兵」のつもりであったし、げんに十六弁菊の御紋の使用を許され、本陣である月真院の問門にその禁紋を染めた幔幕まんまくをめぐらした。いいかえれば、伊東は天皇の新選組である、ということであったろう。
「時勢がかわってゆく」
と、歳三は言った
「妙なのも出て来るさ」
「いつか、花昌町(新選組)と高台寺(御陵衛士)との間で大戦がはじまる、と市中では噂をしていますが、本当でございますか」
「うそですよ」
歳三は、部屋の中に入った。
「お雪さん、そんなことより、私は、近々、公用で江戸へ帰る。上洛じょうらく以来、はじめての江戸です」
「まあ」
嬉しいでしょう、と言う風に、お雪はうなずいた。
「どこかに言伝ことづけはありませんか。お雪さんのためなら、飛脚の役はつとめます」
「たたみいわし」
と不意に言って、お雪は赤くなった。
白魚の干物で、京にはないたべものである。
「たたみいわし?」
歳三は、声を出して笑った。お雪らしい。お雪のうまれた下級武士の家の、台所、茶の間においてまで、暮しの温かみをもってにおって来るようであった。
「お雪さんは、あんなものが好きですか」
「大好き」
顔を縫物に伏せて、くっくっ笑っている。
「いいひとだなあ」
「どうしてたたみいわしが好きだと、いいひとなのです」
「いや ──」
歳三は、せき・・をした。くだらぬことでもひらきなおいって問い詰める癖など、やはり江戸の女であった。近藤の好きな上方の女とは、まるでちがっている。
可愛かわいいことをいう、と思っただけです」
「それが可愛いこと?」
お雪は、眼をあげない。針を持つ手だけが、ちまちまと動いている。
「・・・いちいち、どうも」
「さからうでしょう?」
肩で笑っている。
「そんなことばかりいうと、つい、抱いてさしあげたくなる」
「── え?」
というように、お雪の呼吸いきがとまった。が、眼をせ、手だけは動いている。
動いたまま、言った。
「抱いて下さってもかまいませんことよ」
「・・・・・」
歳三の呼吸いきが、とまる番であった。あとは自分が何をしかかが、わからい。
こんなことは、かつて、どの女との間にもなかった。いつも歳三のやることを、歳三の別の眼が監視し、批判し、ときには、冷ややかな指図をした。
「お雪さん。──」
そのことが終わったあと、歳三は、別人かと思うほどの優しい眼をした。
お雪も、
(このひとは。──)
と、内心、あざやかな驚きがあった。こんなやさしい眼を持った人だったのか。
「ゆるしてください。私はあなたにだけはこんなことをするつもりではなかったが、あなたもわるかった。私から心を奪った」
「そのお心・・・」
お雪はふざけて、さがす真似まねをした。
「どこにございます?」
「知らん」
歳三は、立ち上がった。
「どこか、庭の紫陽花の根もとにでもころがっているでしょう」
雨中、歳三は出た。
風は衰えているが、雨脚はつよい。かさにしぶいていた。
傘の中に、歳三はこもるような気持で、ひとり居る。お雪の残り香とともに、歩いた。
2024/03/13
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