~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
江 戸 日 記(一)
「いや、私はこの姿なりでいい」
と、歳三が、ただの浪人姿で東下/rb>とうげしようとするのを、近藤がとめた。
「道中は先々、宿割して本陣に泊まることになっている。その風体ふうていでは、御定法ごじょうほうが立たぬ。れっきとした格式通りの装束こしらえで行け」
当然なことだ。
浪人姿で、本陣泊まりはまずかろう。本陣は、大名、公卿、旗本、それに御目見得以上の身分でなければ泊まれない。
歳三はぎょうぎょうしい恰好かっこうになった。
青たたき裏金輪抜けの陣笠じんがさ、その白緒をつよくあごに締め、供には若党、草履取り、槍持やりもち、馬の口取り、といった者をそろえて、街道を下った。
これに、隊士十五人がつく。
(どうも芝居じみている)
はじめは、照れくさかった。
本陣へ着くと、門前に、
「土方歳三宿」
という法書紙の関札せきふだが貼り出され、宿役人が機嫌きげんをうかがいに来る。
(おかしなものだ)
箱根を越えるころには、すっかり板についてしまっていた。
(照れ臭え、と思えば、他人の眼からもちぐはぐに見えるだろう。そういうものだ)
度胸を据えてしまった。
えてみると、上背うわぜいもあるし、眼もと、口許くちもとに苦みのある涼しい容貌ようぼうの男だから、親代々の旗本よりずっと立派に見えるのである。
「土方先生、こりゃどうも」
と隊士のほうが、口にこそ出さないが、そんな眼で、おどろいている。
道中、単衣ひとえでとおした。
この慶応三年秋というのは、いつまでもだらだらと暑さがつづいて、やりきれなかったからである。
品川の海が右手にきらきらと光りはじめたとき、歳三はやっと、
(帰って来た)
という実感をもった。あれは文久三年、まだ寒かった二月のことだ。江戸を発った。あれから足かけ五年目の帰郷である。
歳三一行は、江戸の大木戸へ入った。
しばらく歩いて、金杉橋のたもとの茶店で、休息した。べつに疲れてはいなかったが、江戸に帰った、という気分を、床几しょうぎの上で味わってみたかったのである。
(江戸はかわった)
景気が、ではない。
町の者、茶店の亭主、女房、婢女はしためのたぐいまで、どこか表情がしらじらしい。
が、すぐ歳三はその理由に気づいた。
(ばかばかしい。おれのこの衣装だ)
町人どもは、旗本である歳三に対し、それにふさわしい表情、物腰で接する。江戸が変ったのではなく、歳三が変ったのだ。
親爺おやじ
と呼んでも、即答はしない。若党に、うかがいを立てるような顔つきをする。
「おい、菰田こもだ君」
と、歳三は同行の平隊士に言った。
「あの親爺に、おれにいろいろ世間話をするように、さとしてくれ」
わらながら、滑稽こっけいになった。
親爺は、やっと打ちとけた。
「殿様、江戸もここ一年でだいぶかわりましてござります」
と、おやじは言った。歳三が、大坂在番かなにかで、戻って来た、見ているのだろう。
「こうして外をながめていると、そうも見えぬようだが」
「いいえ、一度ごらんなさしまし、一ッ橋御門のそとに異国人伝習所というとほうもない建物が出来ておりますし、鉄砲洲てっぽうずの軍艦御操練所のあとへも、ほてる・・・とかいう異人の宿がこの夏から建って、近くの十軒町の連中が、むこうの空がみえねえと、半分冗談でさわいでいるほど、たいそうなものでございます」
「そうか」
歳三も、感慨無量だった。
かつて江戸を発つ時には、
「攘夷のさきがけになる」
と言って出たはずである。
ところが、かんじんの幕府が、攘夷主義の京都朝廷の意向に反して、なしくずしに開国してゆく。
条約も、もはや一流国だけでなく、この月も、ポルトガル、イスパニア、ベルギー、デンマークといった二流国とまで結ぶに到った、ということを歳三も聞いていた。
(攘夷屋の伊東甲子太郎が怒るはずさ)
歳三は、攘夷も開国もない。
事がここまで来た以上、最後まで徳川幕府をまもる覚悟になっている。
歳三らは、茶店を発った。
あとでおやじが、くびをひねった。
(どうも見たことのある顔だ)
おやじは、南多摩郡日野の生まれで「、松吉といった。日野宿は、歳三の生家に近い。
「あのかたは、どなただ」
と、女房に聞いた。
「大御番組頭で、なんでも土方歳三とおっしゃるそうだよ」
「あっ、歳」
思い出した。
浅川堤から多摩川べり、甲州街道ぞいの一帯を、真黒にやけしてうろうろ歩いていた茨垣ばらがき(不良少年)の歳ではないか。
「歳め、なんてえ真似まねしやがる」
おやじは、眼をみはった。歳がニセ旗本で東海道を上下していると思ったのだろう。
2024/03/17
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