~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
江 戸 日 記(二)
歳三は、近藤が最近買い求めた牛込二十騎町の屋敷に草鞋をぬいだ。
近藤はさきに帰東したとき、小石川小日向柳町の古道場をたたんでしまって、格式相応のこの屋敷を買った。
この広い屋敷に、病臥びょうが中の近藤周斎、勇の女房のおつね、それに、ひとり娘の瓊子たまこが、世間からおきわすれられたように住んでいる。
(なつほど、りっぱな屋敷だ)
江戸も変った。とやや皮肉に歳三は思った。武州の百姓あがりの近藤勇が、これだけの屋敷を、江戸に持っているのである。
周斎老人は、骨と皮だけになって、もう視力もいけないようだった。
「いかがです」
と、歳三は、ふとんの横に坐ったが、眼がひらいているだけで、見えていないらしい。
それでも、夜になって少し元気になり、
「歳よ。おれも一生で九人も女房をかえたほどの男だが、こんどはいけないらしい」
と、小さな声で言った。
勇の女房おつね・・・は相変わらずの不愛想で、なつかかしがりもしていなかった。
「お達者ですか」
と、歳三が言うと、
「体だけはね」
と答えた。こんな女でも、近藤から捨てられて暮らしていると、やはり人並みに腹が立つものらしく、以前よりも、顔つきが剣呑けんのんになっていた。
「当分、宿に拝借します」
「ああ」
おつね・・・は、腹のあたりをきながらうなずいた。
とうてい、大旗本の奥様とは言えそうにない女だった。
歳三は、この屋敷を本拠にして隊士募集をするつもりでいる。
「多少、人が出入りしますが、お含みおき下さい」
翌日から、隊士に檄文げきぶんを持たせて、江戸中の道場を片っ端から訪ねさせた。
大小三百軒はある。
なるべく無名流派の小道場を選び、千葉、桃井、斎藤といった大道場は訪ねさせなかった。
大道場の門人は、勤王化している者が多い。
もう新選組も、清河八郎や、山南敬助、藤堂平助、それに伊東甲子太郎でこりごりだった。
「小流儀がいい。それも、百姓、町人といった素姓の者で、根性のすわった男がいい」
と、歳三は、募集掛りの隊士に言った。
「長州の奇兵隊を見ろ」
百姓、町人のあがりばかりだが、いまや、長州軍をささえる最強の隊になっている。代々、家禄に飽いた家からは、ろくな武士が出ない。
噂はたちまち江戸の諸道場にひろまって、二十騎町の近藤道場に訪ねて来る剣客が、ひきもきらさなかった。
面接は、隊士にまかせている。
隊士が気に入ると、鄭重ていちょうに玄関まで送り、集合の日を知らせるのである。
歳三は、いっさい顔を見せず、奥の一室で、掛りの隊士からその日の報告を聞くだけである。
「なぜ、お会いなさらないのです」
と隊士が聞いたことがある。
「おれは、もうつらを見ただけで好ききらいが先に来る男だよ。そんな奴に大事な隊士の選考が出来るものか」
「なるほど」
と隊士たちはあとで、ささやき合った。
「あの人は、あれはあれなりに御自分がわかっているらしい」
という者もあれば、
「いや、この道中で思ったのだが、あの人も人間が出来てきたようだ。もう、こまごましたことはいわない」
そんなことをいう者もある。どういうものかわからないが、歳三の評判がこの江戸行きをさかいにして、めっきりよくなってきた。
歳三自身も、これは自分でも気づかぬことだろう。ひょっとすると、京のお雪との交情にかかわりのあることかも知れないのだが。──
もしここに、人間観察のするどい隊士がいるとすれば、
「ひとり身で、女もろくに抱かずにここまでうやってきた人だ。血がたけっている。それがどこかでいいのいができて、他人ひとにそれぞれの生命の哀れさがわかってきたのではないか」
そんなことを言うかも知れない。
2024/03/17
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