~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
剣 の 運 命 (三)
この伊東甲子太郎が暗殺されたのは、慶応三年十一月十八日の夜である。
近藤の私邸に招待され、泥酔でいすいした。辞去したのは、夜十時すぎである。
風はなかったが、道がてていた。すでに沖天ちゅうてんにある月が、北小路通をお照らしている。伊東は東へ歩いた。東山高台寺の屯営に戻ろうとしていた。
提灯ちょうちんも入れない。供も連れなかった。伊東は、自分の才弁に自信を持ちすぎたのであろう。
近藤の私邸では、伊東は時務を論じ、幕府を痛罵つうばし、ほとんど独断場であった。
みな、感動した。
近藤のごときは、手を握り、
「伊東先生、互にやりましょう。国事にたおれるは丈夫の本望とするところではありませんか」
と、眼に涙さえうかべた。近藤の涙はどういう心事であったろう。
原田左之助のような男まで伊東の弁舌に魅了され、感歎かんたんの声をあげては、酒をついだ。
(愚昧ぐまいな連中だけに、いったん物事がわかると感動が大きいのだ)
伊東は、いい心もちであった。
(が、あの席に土方が居なかった)
はじめは不審であったが、杯を重ねるほどに気にならなくなってきた。
(世が変わるにつれて、ああいう玩愚者がんぐしゃも新選組から消えてゆかざるを得ないだろう。察するところ、こんにちの時局を予言していた私との同席が、恥ずかしかったにちがいない)
その「玩愚者」は、伊東の行くて、半町ばかりむこうの町寺崇徳寺の門のかげに身じろぎもせずに眼を光らせていた。
むかいも寺。
前の道は、ひとが三人やっとならんで歩ける程度の狭さである。
そこの板囲い、町家の軒下、天水桶てんすいおけの積み上げた背後、物蔭という物蔭が、ひそかに息づいていた。
伊東は、酔歩を橋に踏み入れた。小橋を渡りながら、江戸の頃に習った謡曲で「竹生島ちくぶじま」の一節をひくくうたいはじめた。
渡りおわった。
橋からむこうの道は、東へまっすぐに伸び、その道の果てをくろぐろとしたいらか・・・の山がさえぎっている。東本願寺の大伽藍だいがらんである。
伊東の謡曲は、つづく。
やがて、とぎれた。
一すじのやりが、伊東のくびの根を、右からつらぬいていたのである。
伊東はそのまま立っていた。
気管をはずれていたため、かすかに呼吸は出来た、身動きが出来ない。槍も動かず、伊東甲子太郎も動かなかった。
その時背後に忍び足でまわった武藤勝蔵という男が、大刀をふりかざしざま、伊東にりつけた。
伊東、それよりも早く抜き打ち勝蔵を斬ってすてたというから、尋常な場合なら伊東はどれほどの働きをしたかわからない。
抜き打ちで斬った時に、伊東の頸を串刺くしざしにしていた槍が抜けた。
と同時に、血が噴き出した。伊東は、槍に突かれていることによって、かろうじて命を取りとめていたということになるだろう。
五、六歩、意外なほどしたたかな足取りで歩いていたが、やがて、角材でも転がすような音をたてて、横倒しにころがった。
絶命している。
「戦はこれからだ」
と歳三は歩きだした。
悪鬼に似ていた。
(節義をうしなう者は、すなわちこれだ)
伊東の死体は、オトリとして七条油小路あぶらのこうじつじの真中に捨てておいた。やがて町役人の報告で東山の御陵衛士の屯所に聞こえるであろう。
おそらく全員武装して駈けつけるはずだ。
それを待ち伏せて脱盟組を一挙に殲滅せんめつするのが、歳三の戦術であった。敵将の死体をオトリにして相手をわな・・にかかるというような残忍非情の戦法を思いついた男も、史上稀であろう。
伊東を人間として扱わなかった。
それほど歳三は、かれ自身の作品・・である新選組を、崩壊ほうかい寸前にまで割ってしまった元兇げんきょうを憎んでいた。
その余類に対しても同様である。
「やがて連中がやって来る。一人も討ちらすな」
と、出動隊士四十余人にきびしく命じた。
歳三は、油小路七条の四ツ辻の北へ三軒おいて東側のうどん・・・屋「芳治」を借り切り、ここに出動隊の主力収容した。
他は三人ずつ一組とし、四ツ辻のあちこちに伏せさせた。
やがて月が傾きはじめたが、まだ来ない。
「土方さん、来るだろうか」
原田左之助は、「芳治」の框に坐っている歳三に、土間から問いかけた。
「来る」
確信がある。正直なところ、伊東派の連中は腕も立つが、気象のはげしい者が多い。
首領の死体をはずかしめから救うために、彼らは生死を忘れるだろう。
2024/03/23
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