~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
大 暗 転 (二)
近藤は政治家になりすぎた、と歳三は思っている。
(諸般の情勢などはどうでもよい。情勢非なりといえども、節義を立て通すのが男であるべきだ)
近藤は、後藤側の記録では、「私も土佐藩の家中に生まれたかった。それならばこの時勢に、どれほどの働きが出来るか」と洩らしたという。
明らかに近藤の思想はぐらついているい。一介の武人であるべき、またそれだけの器量の近藤勇が、いまや分不相応の名誉と地位を得すぎ、さらには、思想と政治にあこがれを持つようになった。近藤の、いわば滑稽こっけい動揺どうようはそこにあった。
歳三はそう見ている。
困ったものだよと、病床の沖田総司にひそかにこぼした。
「新選組は、いまや落日の幕軍にとって最強の武人団になっている。こういう組織というものは、その動かざること山のごとく、そのしずかなること林のごときものであってこそ、おそれられるのだ。それをなんぞ、首領みずからが、幕府や諸藩の要人のあいだを駈けまわって、ぺちゃぺちゃ寺務を論じていては軽んぜられるばかりだ」
「そう・・・ですねえ」
沖田は、相変わらず、どっちつかずの微笑でまくらの上から歳三を見あげている。
「総司、早く元気になれよ」
「なりますとも」
沖田は、微笑をした。その微笑は、・・・いつもそうなのだが、歳三がこわくなるほど澄んでいる。
「総司、お前はいいやついだねえ」
「いやだねえ」
沖田は、首をすくめた。今日の歳三は、どうも変である。
「おれも、来世もし、生まれ変わるとすれば、こんなあくの強い性分でなく、お前のような人間になって出てきたいよ」
「さあ、どっちが幸福か。・・・」
沖田は、歳三から眼をそらし、
「わかりませんよ。もって生まれた自分の性分で精一杯に生きるほか、人間、仕方がないのではないでしょうか」
と、言った。沖田にしてはめずらしいことをいう。あるいは、自分の生命をあきらめはじめているのではないか。
心境がそうさせるのか、声が澄んでいた。
歳三は、あわてて話題をかえた。なぜか、涙がにじみそうになったからである。
「おれは兵書を読んだよ」
と、歳三は言った。
「兵書を読むと、ふしぎに心が落着いてくる。おれは文字には明るくねえが、それでも論語、孟子もうし、十八史略、日本外史などは一通りはおそわってきた。しかしああいおうものをなまじいすると、つい自分の信念を自分で岡目八目おかめはちもくりゅうにじろじろ看視するようになって、腰のぐらついた人間ができるとおれは悟った。そこへ行くと孫氏、呉子といった兵書はいい。書いてあることは、敵を打ち破る、それだけが唯一ゆいつの目的だ。総司、これを見ろ」
と、ぎらりと剣を抜いた。
2024/03/25
Next