~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
大 暗 転 (四)
情勢は、日に日に変転して、大政奉還から二ヶ月たらずの慶応三年十二月九日、
王政復古
の大号令がくだった。
京都駐留の幕府旗本、会津兵、桑名兵はことごとくこの「薩摩藩の陰謀成功」を不服とし、洛中で戦争を開始しようという動きが高まってきた。
「将軍慶喜は、水戸の家系だ。もともと朝廷を重視しすぎる家風で育ったゆえ、このお家の重大事に、薩摩側の、勤王、勤王、というお題目に腰がくだけてしまった。将軍は徳川幕府を売ったのだ」
将軍が幕府を売った、とは妙な理屈だが、幕臣でさえそういうことを大声叱呼しつこして論ずる者があった。いまや混沌こんとん
慶喜は、才子である。おそらく、頭脳、時勢眼は、天下の諸侯の中でも慶喜におよぶ者がなかったろう。
しかし時流に乗った薩摩側の、打つ手打つ手にはよても抗しようもない。
当時の「時勢」の雰囲気を、後年、勝海舟は語っている。
気運というものは、実におそるべきものだ。西郷(隆盛)でも木戸(桂小五郎)でも大久保(利通)でも、個人としては、別に驚くほどの人物ではなかった。(勝は、別の語録では西郷を不世出の人物として絶讃ぜっさんしている)。けれど、かれらは「王政維新」という気運に乗じてやって来たから、おれもとうとう閉口したのよ。しかし気運の潮勢が、しだいに静まるにつれて、人物のあたいも通常に復し、非常に偉く見えた人も、案外小さくなるものサ。
ついでに、もうひとくだり、卓抜した評論家でもあった勝が、当時の情勢をどう見ていたかについて、彼自身の言葉を借りよう。ただし右の引用は、勝の口調どおり速記してのこされているものだが、左記のものは、彼自身がこの慶応三年の当時、ひそかに随想として書きとめておいたもので、それだけに「時勢」のにおいが躍動している。ただし文語のため、以下は作者意訳。
会津藩(新選組を含む ── 作者)が京師に駐留して治安に任じている。しかしながらその思想は陋固ろうこで、いたずらに生真面目きまじめである。しかし彼らは、いかにすれば徳川家をまもれるかという真の考えがない。その固陋な考えこそ幕府への忠義であったと思っている。おそらくこのままでゆけば、国家(日本)を破る者は彼らであろう。とにかく見識狭小で、護国の急務が何であるかを知らない。(中略) このさい、国家をしずめ、高い視点からの大方針をおもって国の方向を誤たぬ者が出てくれぬものか。それを思えば長大息あるのみだ (作者──もっともこういう勤王佐幕論よりももう一つ上から、当時の国情を見ていたのは幕臣では勝海舟ひとりである。あるいは、将軍慶喜もそうであったかも知れない。慶喜の“幕府投げ出し”を会津藩士が激怒したのは、こういう意識のちがいにある)。
京都の幕兵、会津、桑名の兵に不穏の動きがあると知るや、慶喜はこれを避けるため、自分は京都からさっさと大阪城に引き揚げてしまった。
それまで、
「家康以来の英傑」
といわれ、「慶喜あるかぎり幕府はなおつづくかも知れぬ」と薩長側がその才腕を怖れていた徳川慶喜の変貌へんぼうが、この時から始まる。恭順、つまり時勢からの徹底的逃避が、最後の将軍慶喜のこれ以後の人生であった。
 
余談だが、慶喜はこの後、場所を転々しつつ逃避専一の生活をつづけ、その逃避恭順ぶりが」いかに極端であったかは、彼が、ふたたび天皇にごあいさつとして拝謁はいえつしたのは、なんと三十年後の明治三十一年五月二日であった。彼は自分の居城であった旧江戸城に「伺候」し、天皇、皇后に拝謁した。明治天皇は彼に銀の花瓶かびん一対いっついと紅白のチリメン、銀盃ぎんぱい一個を下賜かしされた。政権を返上して三十年ぶりでもらった返礼というのは、たったこれだけであった。推して、慶喜の悲劇的半生を知るべきであろう。
2024/03/28
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