~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
大 暗 転 (五)
幕軍は、慶喜の大坂くだりとともに潮をひくように京を去った・むろん、会津藩も。
ところが新選組のみは、
「伏見鎮護」
という名目で、伏見奉行所にとどめられた。
京には薩摩を主力とするいわゆる討幕勢力が天皇を擁している。
幕府の首脳部は、
(いつ京都の薩長と大坂の幕軍との間戦が始まるかも知れぬ)
という理由で、大坂からみれば最前線の伏見に、新選組を置いたのである。
「これほどの名誉はない」
近藤もさすがに喜んだ。もし開戦となれば、薩長と最初に火蓋を切るものは、新選組であろう。
「歳、嬉しいだろう」
「まあな」
歳三は、いそがしい。花昌町の屯営の引き揚げ、武器その他を積載する荷駄隊の準備、隊の金庫にある軍事金の分配、その他移駐にともなう指揮は隊長の職務である。
にわかのことで、明日の十二月十二日には出発しなければならなかった。
「歳、今夜かぎりの京だ。文久三年にのぼって以来、この都でさまざまなことがあったが ──」
と近藤が言ったが、歳三は、こわい顔をして黙っていた。そういう感傷につきあっていられる余裕がないほど雑務に多忙であった。いや、この男の本性ほんしょうはおそらくそうではなかったのであろう。
元来が、豊玉(歳三の俳号)宗匠なのである。それも、歳三はひどく感傷的な句をつくる「俳諧師はいかいし」であった。多感なおもいがあったにちがいない。
「なあ、歳。原田左之助や永倉新八は女房をもっている。それに、云いかわした女がある隊士もおおぜいいるだろう。どうだ、今夜はみなそれぞれの女のもとにやり、明早暁そうぎょう、陣触れ(集合)といおうことにしては」
「反対だね」
と、歳三は言った。
「あすは、いわば出陣なのだ。女との別れに一晩もついやさせては、士気がにぶる。別れは一刻でいい」
「お前はじょうを解さぬな」
近藤はさすがにむっとした。近藤は妾宅しょうたくが三軒もある。近藤が怒るのも無理はなかった。その三軒を駈けまわるだけでも、一晩では足りないだろう。
(おれにも、お雪がいる)
歳三はそう思うのだが、この情勢混乱期に、隊の中心である近藤や自分が、一刻でも隊士の視野から姿を消すことは出来ない。
脱走。──
おそれている。
いや、この情勢下では、うかつに眼をはなすと脱走者がきっと出る。
(どうせ逃げるやつなど惜しくないのだが、脱走者が一人でも出れば全体の士気にかかわる。それがこわい)
歳三はそう思っていた。
「いやとにかく ──」
と、近藤は言った。
「明日はお互い命がどうなるかわからぬ身だ。一晩、名残を惜しませるのが、将としての道だ。歳、おれは今から隊士を集めてそう命ずる」
その夜、歳三は、残った。
幹部で屯営に残ったのは、副長の歳三と病床の沖田総司だけである。
「今夜はお前の看病をしてやるよ」
歳三は、沖田の病室に机を持ち込み、手紙を書いた。
「お雪さんへですか」
沖田は、病床から言った。
「私はまだお会いしたことはないが、沖田総司からも、お達者を祈っていますと書き添えて下さい」
「うん。──」
歳三は、まぶたをおさえた。
涙があふれている。
京への別離の涙なのか、お雪へのおもいがせきあげてきたのか、それとも沖田総司の優しさについ感傷が誘われたのか。
歳三は泣いている。
机へつっ伏せた。
 
沖田は、じっと天井を見つめていた。
(青春はおわった。──)
そんな思いであった。京は、新選組隊士のそれぞれにとって、永遠に青春の墓地になろう。この都にすべての情熱の思い出を、いま埋めようとしている。
歳三の歔欷きょきはやまない。
2024/03/28
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