~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
伏 見 の 歳 三 (一)
伏見。──
人家七千軒の宿駅である。
京から伏見街道を南へ三里、夏は真昼でも蚊のひどい町だ。街道を下ってこの宿場に入ると、最初が千本町せんぼんちょう。ついで、
鳥居町
玄番町げんばんちょう
とつづき、やがて、木戸門がある。
その木戸門をくぐった鍋島町に、家康以来二百数十年、徳川の権威を誇ってきた伏見奉行所の宏壮な建物がある。維新後、兵営になったほどの広い敷地が、灰色の練塀ねりべいで囲まれている。
近藤、歳三らがこの伏見奉行所に移って、
「新選組本陣」
の関札をかかげた時は、隊士はわずかに六、七十名に減少していた。歳三の予想した通り、あの夜、時勢の変化を見てついに屯営とんえいに帰らない者が多かったのである。
幕軍主力は大坂に居る。京の薩藩以下の「御所方ごしょがた」に対する最前線は伏見奉行所であった。その伏見奉行所を守る新選組が六、七十人というのは、(ほかに会津藩兵の一部もいたとはいえ)ひどすぎるだろう。
ほかに、大砲が一門。
「これじゃ、仕様がねえよ」
近藤もあきれてしまい、大急ぎで大坂の幕軍幹部、会津藩とかけあい、それらの中から、腕の立つのを選んで増強してもらった。
兵力百五十人。
「まあまあ、どうにかこれでかたちがついたことだ」
と、近藤も安堵あんどした。
 
沖田総司は、新屯営に入っても、寝たっきりであった。
賄方まかないがたから運ばれて来るぜんの上のものも、ほとんど箸をつけない日が多い。
「総司、食わねえのか」
と、歳三は日に一度は部屋に入って来ては、こわい顔で言った。
ここ一月、沖田総司のせようが目立ってきている。
「食わねえと、死ぬぞ」
「ほしくないんです」
「虚労散は飲んでいるか」
歳三の生家の家伝薬である。
「ええ、あれを飲むと、すこし体に活気が出て来るような気がするんです。気のせいか知れませんけど」
「気のせいじゃない。おれがむかし売り歩いていた薬だ。効く」
「ええ」
微笑わらっている。
かつて沖田が率いていた一番隊は、二番隊組長の永倉新八の兼務になっていた。
「新八が、早くなおってくれないとくて困る、と言っていたよ」
「そうですか」
うなずいた表情が、もう疲れている。これだけの会話が苦になる、といおうのはよほど病勢がすすんでいるらしい。
そのうち、長州藩兵がぞくぞくと摂津西宮にしのみやはまに上陸し、京に入りはじめた。
荷が重 「長州が?」
近藤は、その佐幕的立場から長州をもっともきらっている。近藤が、長州藩兵の西宮上陸を聞いて驚いたのも、無理はなかった。長州は、元治げんじ元年夏のいわゆる蛤御門はまぐりごもんノ変で京を騒がした罪により、幕府が朝廷にせまって、藩主の官位をうばい、恭順、罪を待つ、という立場にある藩である。
それが、朝命もまたず勝手に兵を動かし、西宮へ無断上陸したばかりか、京へ入って来つつあるというのだ。
「幕府をなんと心得ているのだ」
と、近藤は激怒した。
が、すでに京都にある薩摩藩が宮廷工作をして、長州に対する処遇が一変していた。
藩主 父子の官位が復活されたばかりか、
「入洛して九門を護衛せよ」
という朝命が出ている。
長州人の入洛は元治元年以来、四年ぶりである。もともと京都庶人は長州びいきで、慶応三年十二月十二日長州奇兵隊が堂々と入洛して来た時には、京都市民は、そのタス(弾薬箱)の定紋を見て、
「長州様じゃ」
とおどろき、涙を流しておがむ者もあり、
こわや、怖や」
とささやく者もあった。長州軍が入洛した以上、その藩風から推して、もはや戦さは、まぬがれぬと京都人はみたのであろう。
この日から毎日のように長州部隊が入洛し、ついに十七日、総大将毛利平六郎(甲斐守かいのかみ)の率いる主力が摂津打出浜うちでのはまに上陸し、砲車を曳きながら京に向って移動しはじめた。
2024/03/28
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