~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
伏 見 の 歳 三 (四)
お雪はそのころ、京町通の「油桐屋ゆとうや」という軒の低い旅籠はたごにとまっていた。
歳三の手紙を受取って以来、お雪はひそかに伏見へ二度も来ている。
会うつもりは、なかった。
(あの人は、別れに来なかった。武士らしく会わずに戦場へゆいきたい、と書いていた。そのくせ、会えば、自分が変ってしまうかも知れない、とも書いてあった)
このとき、歳三の筆跡ひっせきをお雪ははじめて見て、まず驚いたことには、ひどく女性的な筆ぐせだということだった。
(これが、京の市中を戦慄せんりつさせた土方歳三なのか)
と思ったのは、その文章であった。女でもこういう綿々とした書き方はしないであろう。
(決して優しい人ではない。心の温かいひとでもない。しかし、どうであろう。これほど心弱いひとがあるだろうか)
お雪は、その心弱い歳三という男を、よそながらひと目見て、別れたいと思った。そのおもいが、お雪をこの町に来させた。
(もう、いらっしゃらないのかしら)
奉行所の練塀ねりべいの中は、数百の人数がいるとは思えないほど、いつも静もっている。
今日は、朝、近藤が出て行くのを軒端で見た。
ひるは、長州人の通過を見た。
しかし、歳三の姿だけは、いつも、どこにもなかった。
(縁が、もともと薄いのかも知れない)
お雪は、あきらめはじめている。ながい人生のほんの一時期に、あの男が影のように通り過ぎた。それだけの縁なのかも知れない。
歳三は、おそい昼食をとった。
しばらく午睡した。
遠くで銃声が聞え、背後の山にこだましたが、一発きりで、やんだ。歳三は起きた。ふところの時計尾が四時半をさしている。
「なんだ、いまのは。──」
と、えんに出た。
ちょうど、庭に永倉新八が居た。
「どこかの藩が、調練でもうやっているのでしょう」
「一発きりの調練かね」
歳三は首をひねった。
のも、当然だったかも知れない。
この一発の銃声が、今後の新選組の指揮を歳三にとらせる運命になるのである。
その刻限。──
近藤は、前後二十人の隊士を従え、伏見街道を墨染すみぞめにさしかかった。
尾張徳川の伏見藩邸がある。
そのわきに空家が一軒あり、古びた格子こうしを街道にさらしている。
その格子の間から、銃砲が一挺いちょう、わずかに銃口をのぞかせたのを、隊列の者はたれも気づかない。
空家の屋内には、富山弥兵衛、篠原泰之進、阿倍十郎、加納道之助、佐原太郎、といった伊東甲子太郎の残党が待ち伏せていた。
彼らは、朝、近藤が京に向かったことを察知して、復讐ふくしゅうの日を今日と決めた。
近藤が、この日、二条城、堀川の妾宅しょうたくに寄り、二時過ぎ、伏見街道にさしかかったことまで、十分に偵知ていちしている。
「隊士は二十人いる」
と篠原は言った。
「ところがどのつらを見ても、覚えがない。どうやら新参の役立たずばかりだ。鉄砲一挺ぶっぱなしてり込めば逃げ散るだろう・・・」
油小路のあだを、伏見街道で討つつもりであった。いずれも新選組当時、使い手として鳴らした連中だけに、近藤勢の数を恐れていない。いまは、一同、京都の薩摩藩邸に陣借りしている。
やがて、近藤が、かつかつと馬を打たせてやって来た。
(来た。──)
と、篠原泰之進が、左眼をとじた。指をしぼりつつ、引鉄ひきがねをおとした。
ごうっ、と八匁玉が飛び出した。
弾は、馬上の近藤の左肩に食いこみ、肩胛骨けんこうこつを割った。
「それっ」
と、伊東の残党は路上に飛び出した。
近藤は、さすがに落馬せず、くらに身を伏せ、街道を飛ぶように走り出した。
篠原らはそれを追いつつ、またたく間に隊士二、三人を切り伏せたが、ついに近藤に太刀をあびせるまでにはいたらなかった。
近藤は、鞍壺くらつぼに身を沈め、右肩の傷口に手をあてつつ、駈けた。
伏見本陣の門へ駈け入るなり、馬を捨て、玄関に入った。
歳三と、廊下で出会った。
「どうした」
「医者を頼む。そう、外科だ」
近藤は自室に入り、はじめてころがった。血が畳を濡らしはじめている。
歳三は、永倉らに伏見町の捜索を命じ、医者が来るまでの間、衣類をぬがせ、傷口を焼酎しょうちゅうで洗ってやた。
「歳、傷はどんなもんだ」
顔が苦痛でゆがんでいる。
「たいしたことはないだろう」
「お前のいうことをきいて、今日はやめればよかった。骨はどうだ、骨は。骨がやられては、もう剣は使えねえよ」

お雪がそのころ、屯営の前を通り、ひっそりとまた「油桐屋」に戻った。
2024/03/31
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