~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その一 (一)
数日前、筆者は、歳三がいた伏見奉行所あとを訪ねるために、京都から伏見街道を南下してみた。
途中、
御香宮ごこうのみや
という広大な神域を持つ神社がある。街道の西側に森をなしている。
そのわずかに南、御香宮よりおそらく十倍は広かったであろう地域に、
「伏見奉行所」
は、堀をめぐらせていた。
「いま、どうなっています」
と、御香宮の神主さんに聞くと、
「団地どすわ」
と、吐き捨てるように言った。
なるほど現場に立ってみると、奉行所があった場所は、ブルドーザーできれいにならされて、星型建築や、羊羹ようかん型の建物が建っている。
「むかし、といってもほんの最近までですが、この路傍十坪ほどの敷地に、立派な自然石で鳥羽伏見の戦の幕軍戦死者の慰霊塔がありました。その子孫の人たちが建てたもので、明治以来、私の方のお宮で、毎年、祭祀をしておりました。いまは取りはらわれて、敷地も売られてしまって跡形もございません」
私は、茫然と、団地風景を見渡した。
日本歴史は関ヶ原でまがり、さらに鳥羽伏見の戦いでまがった。
その場所にひとかけらの碑もなく、ただ団地は、見渡す限り、干し物の列である。
「暑うおすな」
と、偶然、知人から声をかけられた。
伏見の葭島よしじまで川魚をっているおやじで、京都の老人らしく、さびさびとした声を出す。
あの年・・・は、寒おしたそうどすな」
と、老人は、曾祖母そうそぼから聞き伝えている話をしてくれた。
「お奉行所のそばに、小ぶな・・などがいるい水溜みずたまりがおして、そこに暮から正月にかけて一寸ほどの氷が張っていたそうどす」

近藤が墨染すみぞめ狙撃そげきされたのは、その水溜りに厚氷が張っていたであろう慶応三年十二月十八日である。
医者にみせると、以外に重傷で、肩胛骨にひびが入っていた。
「痛むだろう」
と、歳三は言った。
鉛弾が、肉に食い入り、弾がこなごなに砕けたらしく、肩肉が、コブシほどの面積にわたって、ぐさぐさにつぶれている。血が止めどもなく出る。白布を一夜に何度か取り替えたが、すぐ真赤になった。
「なあに、大したこたねえ」
近藤は、苦痛に堪えていた。
これだけの傷で落馬しなかったとは、さすがに近藤であると歳三は、舌を巻いた。
「── 歳よ」
と、近藤は言った。
「新選組を頼む」
「ああ」
歳三はうなずいた。多摩川べりで遊んだ餓鬼のころからの仲である。ただその一言で、指揮権の移譲は済んだ。
そのあと、近藤のからだに高熱が襲った。一週間ほど、食事もろくにれず、うとうとと眼を閉じたりあけたりするだけの状態だった。
(まねばよいが)
と歳三は案じていたが、血にそろそろ黄色いものがまじりはじめている。
大阪城に居る将軍慶喜からも見舞いの使者が来た。
「大坂へ来い」
と言う伝言である。伏見にはろくな外科がいない。幸い、大阪城には天下の名医といわれた将軍の従医松本良順がいる。
2024/03/31
Next