松本良順は、近藤より二つ年上の三十六歳。幕府の医官松本家の養子になり、長崎で蘭医ポンペから西洋医術を学び、まだ書生の頃長崎で日本最初の洋式病院(当時長崎養生所という名称。今の長崎大学医学部の前身である)をたて、医者には惜しいほどの政治力を発揮した。のち幕府侍医となり、法眼ほうげんの位をもらった。非常な秀才だが、血の気も多かったため、幕府瓦解がかい後は、各地に転戦した。維新後そのため一時投獄されていたが、新政府が彼を必要としたため出仕し、名を順とあらためた。陸軍軍医制度をつくるあげ、陸軍最初の軍医総監(当時、軍医頭という名称)になった。七十六歳まで生き、晩年、男爵だんしゃくをおくられた。今日われわれの生活とのつながりでは、海水浴場を最初に奨励啓蒙けいもうした人で、たしか逗子ずしだったかにはじめて海水浴場をひらいた。当時の日本人は、海で泳いで遊ぶなどは奇想天外なこととしていた。
この松本良順(順)は、近藤を大阪城で治療してから新選組の非常な後援者となり、いま東京の板橋駅東口にある近藤「、土方の連名の碑もこの松本良順の揮毫きごうするところで、晩年まで新選組のことをよく物語った。明治の顕官のなかでは、おそらく唯一ゆいつの新選組同情者であったといっていいだろう。
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