~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その一 (三)
大坂は、幕軍の大拠点である。
彼らは、といってもとくに会津藩、桑名藩という両松平家(藩主は兄弟)が急先鋒であったが、── 京都で少年天皇を擁して、ほしいままに策謀を行なっている薩摩藩に対し、もはや開戦せねばおさまらないほどの憤激をもっていた。
慶喜はすでに将軍職を辞し、家康以来の内大臣の官位も返上し、京からはるか十三里の大坂で、
「謹慎」
そているにもかかわらず、こんどは途方もない難題をもちかけてきた。幕府の直轄領三百万石を朝廷に返上せよ、という。
そのうえ、何の罪あって所領を返上せよというのであろう。大名が所領を返上せねばならぬというのなら、薩摩も長州も土佐も芸州も、そして三百諸侯も、そろって同列に返上すべきである。が、それは、触れない。
慶喜だけに返上せよという。
無茶である。
理屈もなにもあったものではなく、これには、京都にあって薩摩とともに天子の輔佐をしている、土佐、越前、芸州の諸侯も、猛反対した。
が、公卿の岩倉具視、薩摩藩周旋方大久保一蔵(利通)が、たった一人で「少数意見」を通そうとして八面六臂の活躍をしつつある。
大久保の思案は、あくまで、
「徳川家討滅」
にあった。徳川家をその兵力と権威のまま残しては、薩長が考えている「維新」は打開しないのである。古来、戦争手段によらざる革命というものはあり得ない。
だから討つ。
討つには、名目が要る。稀世の策謀家だった大久保一蔵は、大阪城の徳川慶喜に領土返上という難題をもってせまり、もし承諾しなければ、朝敵として討つ。そのつもりで対朝廷工作をすすめていた。
が、公卿はその案に冷淡。
土佐公をはじめとする親朝廷派の諸侯も、薩摩方式の「革命」には反対である。おそらく、当時、全国の武士に世論調査をしても、その九割九分までは、むしろ土佐案か会津藩の徳川家温存方式に賛成したであろう、なぜならば人間はたれしも現状が急変することを好まない。が革命は少数意見が優勢な武力を握った場合に成立するものだ。世論、もしくはいわゆる正論、などは、革命をする側にとっては屁のようなものである。
2024/03/31
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