~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その一 (四)
「この戦はかつ」
と歳三は信じた。
「いいか、諸君。──」
と、歳三は隊士たちを集めて言った。
「おらァ、子供の時からずいぶんと喧嘩けんかをしてきた。喧嘩てのは、おっぱじめるとき、すでにわが命ァない、と思うことだ。死んだ、と思い込むことだ。そうすれば勝つ」
が、内心、
(勝てるかな)
という疑惧ぎくがある。この疑惧のたった一つの理由は、慶喜という人物である。
幕軍が、討薩表(陳情書)をかかげて大坂を出発するというのはいいが、その陣頭になぜ慶喜が立たない。
慶喜は大坂に腰をすえたままである。しかも姿勢はおよそ戦闘的ではなく、婦女子のように恭順・・しているだけではないか。
「わるいだよ」
と思うのだ。
大坂夏ノ陣の軍談は、歳三はそらんずるほどに覚えている。
総大将の豊臣秀頼は、ついに一歩も大阪城を出なかった。四天王寺方面で難戦苦闘している真田さなだ真田ゆきむら村は、何度か息子の大助を使者にして、
「御大将ご出馬あれ」
と、懇請した。大将が出れば士卒はふるい、倍の力を出すものである。が、秀頼は、敵の家康が、七十余歳の老齢で駿府すんぷ城からはるばると野戦軍の陣頭に立ってやって来ているのに、ついに出なかった。
(それに似ている)
ところも、大阪城。
(わるい卦だ)
と思ったのは、それである。
 
歳三は毎日、望楼にのぼっている。
この奉行所の北隣り、と言っていいほど眼と鼻のむこうに、御香宮があるのだ。
そこに薩摩兵が屯営している。藩主の縁族島津式部を司令官とし、兵力八百。
参謀は、吉井友実ともざね(通称幸輔。のち枢密顧問官、伯爵)である。
この幸輔を、歳三も知っている。西郷、大久保につぐ薩摩藩の切れ者で、早くから悔幕、討幕運動をやっていた男だ。
(幸輔を斬っておけばよかった)
歳三は、そう思ったが、幕府、会津藩の外交方針として、薩摩藩をあくまでも刺戟しげきしないようにしてきたため、ついに斬れなかった。
開戦となれば、まっさきにこの御香宮の薩摩隊八百と交戦することになるだろう。
新選組は百五十名。
ほかに、この奉行所に同宿している幕軍としては、じょう和泉守いずみのかみが率いる「幕府歩兵」千人がいる。
みな、だんぶくろ・・・・・を着て、洋式銃を持ち、仏式調練を受けた連中である。
しかし、あてにはならない。
江戸、大坂の庶民から募集した連中で、やくざ者が多く、平素は民家に押し入って物をかすめたり、娘を犯したりして威張りちらしているが、いったん戦になればどうであろう。
(頼るは自力、と思え)
と、歳三はそう覚悟している。新選組、それもしぼってみれば、江戸から京都にかけて苦楽を共にした二十人内外が、おそらく奮迅のはたらきをするであろう。
(いつ、はじまるか)
歳三は本来、眼ばかり光った土色の顔の男だが、ここ数日来、ひどく血色がいい。
生得しょうとくのの喧嘩ずきなのだ。
それに、たとえ、一戦二戦に敗れても、このさき百年でも喧嘩を続けてやる肚ではある。
(いまにみろ)
歳三は、ふしぎと心がおどった。どういうことであろう、── 自分の人生はこれからだ、というえたいの知れぬ喜悦が湧き上がって来るのである。多摩川べりで喧嘩に明け暮れをしていた少年の歳三が、いま歴史的な大喧嘩をやろうとしている。
その昂奮こうふんかも知れない。
やがて暮も押しつまり、年が明けた。
明治元年」。
2024/04/01
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