~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その二 (一)
その元旦がんたん、歳三は、甲冑かっちゅう陣羽織といったものものしい戎装じゅうそうののまま、終日えんに坐っていた。眼の前は、白州しらすである。急にあたりがひえびえとしてきた。
(暮れやがった)
おうちの老樹に落ちてゆく。史上、第二の戦国時代といっていい「戊辰ぼしん」の年の第一日が暮れた。
「あっはは、今日も暮れやがったか」
歳三は、気味の悪いほど機嫌きげんがいい。
「歳、暮れたのがどうした」
き返すであろう近藤はもうそばにいないのである。近藤と共に大坂に後送された沖田総司がもしここにおれば、
「土方さん喧嘩のために生きているのですか」
とまぜっかえすところであろう。歳三はじれるような気持で、開戦を待ちかねていた。
しかし、元旦は無事に暮れた。
二日も無事。
しかしこの日は、多少の変化があった。会津の先遣隊三百人が大坂から船でやって来て、伏見の東本願寺別院に入ったのである。
その使つかいばん番が、伏見奉行所の新選組に挨拶に来た。
「主力は、あす三日にこのあたりに到着するでしょう」
と、使番は言った。
(戦は、あすだな)
歳三は、地図を見ている。
大坂の方角から京に入る街道は、鳥羽街道(大坂街道・ほぼ現在の京阪国道)、竹田街道、伏見街道の三道がある。使番の話では、この三道をひた押しに押して京へ入るということであった。
当然、伏見から鳥羽にかけて東西に布陣している京方の薩長土の隊と衝突する。
(面白え)
歳三は、じっとしていられなくなって、この日も望楼にのぼった。
風が身を切るようにつめたい。
歳三は、フランス製の望遠鏡を取り出して予定戦場を遠望した。
さすがに望遠鏡では見えないが、薩軍主力五百人が京都の東寺とうじにあることは諜報ちょうほうでわかっていた。東寺からまっすぐに南下しているのが、大坂街道(鳥羽街道)である。
薩摩藩はこの街道をおさえている。その前哨ぜんしょう部隊二百五十人は下鳥羽村小枝にまで南下して陣をいていた。
砲は八門。
二百五十人の部隊に火砲が八門というのは日本戦史上、かつてない贅沢ぜいたくさである。
薩英戦争以来、極端に砲兵重視主義になった薩摩藩の戦術思想のあらわれというべきであろう。この前哨陣地の隊長は薩摩藩士野津鎮雄しずお 。その弟道貫みちつらも配属されている。のちに日露戦争で第四軍司令官となり、勇猛をうたわれた人物だ。元帥げんすい、侯爵。
(しかし人数が少なすぎる)
と歳三。
さらに望遠鏡を東に転じて、足もとの伏見の市街地を見た。
伏見というのは京風の都市計画で出来た町で、道路が碁盤の目になっており、人家はびっしりつまっている。ここでは、日本戦史では類の少ない市街戦になろう。市街戦は新選組の得意とするところであった。
つい目と鼻の先の御香宮が薩軍屯所で、ここに八百人。
その伏見街道ぞいの背後には長州軍千人が屯集し、主将は毛利内匠たくみ。参謀は長州藩士山田顕義あきよし(維新後陸軍少将になったが、のち行政家に転じ、内務きょう・司法大臣などを歴任、伯爵)、諸隊長の中にはのちの三浦梧楼ごろう(観樹)などがいる。
竹田街道には土佐藩兵百余人。その予備隊として一個大隊が背後にあり、大隊長は谷干城たてき(のち陸軍中将で西南戦争における熊本鎮台司令官として知らる、子爵)、中隊長には、のち日清にっしん戦争で旅順城を一夜で陥落させた「独眼竜どくがんりゅう将軍」山地元治もとはるがいる。
これら伏見部隊が、歳三の正面の敵になるであろう。
(存外、鳥羽方面に比べて大砲が少ねえ)
と、歳三は観察した。
(これは勝つ)
たれが見てもそう思ったであろう。京都の薩長土三藩の兵は、大坂の幕軍の可動兵力から見れば、八分の一にもあたらない。
2024/04/02
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