~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その二 (二)
この日、伏見の新選組では、「誠」の隊旗のほかに日章旗を立てた。
幕軍全体の隊旗である。というよりも幕軍の方が、国際的立場からみれば(大政奉還したとはいえ)日本の政府軍であるという頭があったのであろう。これは親幕派のフランス公使の入れ知恵ぢえであったかと思われる。
薩長土は、まだ「官軍」にはなっていなかった。なぜならば御所に詰めている公卿くげ、諸侯のほとんどは、薩長の対徳川強硬策に反対で、もし戦闘がおこれば、それは薩長の私闘であって京都朝廷は関知しないというでいる。公卿たちは、十中八九、幕軍が勝つとみていた。勝てば、幕軍が官軍になる。(薩長の首脳部でさえ勝てるとは確信していなかった。 もしけた場合、少年天子を擁して山陰道に走り、中国、西国の外様とざま大名の蹶起けっきを待つつもりであった。薩摩藩の首脳部の一人吉井幸輔も「薩長の存亡、何ぞ論ずるに足らんや」と言っている。もはや薩長にとっては必死の賭博とばくといってよかろう)
三日。──
運命の日である。
この日、前夜来大阪城を進発した会津藩兵はぞくぞくと伏見に到着し、伏見奉行所に入った。
歳三はそれを正門で迎えた。
「やあ、土方さん」
と肩を叩いたのは、隊長の林権助老人である。この時六十三。顔が赤く、灰色の眉が、ちぢれている。
林家は代々権助を世襲する会津家中の名家で、権助安定やすさだは若い頃から武骨で通った名物男であった。会津藩が京都守護職を命ぜられてからずっと大砲奉行をおおせつかってきている。
歳三がかつて、
「新選組にも大砲を数門よこせ」
と会津藩に折衝した時、あいだに立った藩の公用方の外島権兵衛がだいぶ困っていたが、林権助が、
「ああ、一つ進ぜる」
と無造作にくれた。
その後、何度か、この老人と黒谷の会津本陣で酒を汲み交わし、権助も歳三をひどく気に入ったようであった。
権助、酒は、あびるほど飲む。
「あんたは感心じゃ」
と、権助は歳三を褒めたことがある。
「飲んでも、天下国家を論ぜぬところがおもしろい」
褒めたのか、どうか。── ただそのあとで、
「わしと同じじゃ」
とつけ加えた。武弁であることに徹底しようとしている老人である。
酔っても、芸はなかった。ただ、芸とはいえないがときに、
遊び・・をやりまする」
と幼童の声を真似る。
遊び・・」とは、会津藩の上士の児童のあいだにある一種の社交団体で、六、七歳になるとこの「遊び」という団体に入る。
会津藩の上士は、約八百軒である。これを地域によって八組の遊び・・団体にわけ、九歳の児童を最年長としていた。
彼らは午前中は寺小屋に通い、午後はどこかの家に集まる。
ここで、年齢順にならび、最年長の九歳の早生まれの者が座長となり、
「これからお話をいたします」
と正座し、「遊び」の心得方をのべる。
一、年長者のいうことは聴かねばなりませぬ
二、年長者にはおじぎをしなければなりませぬ
三、うそを言うてはなりませぬ
四、卑怯ひきょうなふるまいをしてはなりませぬ
五、弱い者をいおじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交してはなりませぬ
権助は、酔うと童心にかえるたちなのか、これを高唱して子供の頃の真似をするのだ。現在んら酒席で童謡を歌うようなものであろう。それだけが酒席の芸という男である。
槍術そうじゅつ、剣術の免許者で、とくに会津の軍学である長沼流にあかるく、調練の指揮をとらせると無双にうまかった。
だから会津藩も、こんどの伏見方面の指揮をこの六十三歳の老人にとらせることになったのであろう
2024/04/03
Next