林部隊の砲は、三門である。ごろごろと車輪をひびかせつつ、奉行所の門に入った。
「土方さん、形勢はどうです」
と、林権助は、あごを北へしゃくった。薩長の陣地の配置を聞いていたのである。
「あとで望楼へお伴しましょう」
と歳三はまず手製の地図をひろげた。
権助は驚嘆して、
「ほう、ほう」
と、子供のように眼をかがやかせた。
「この地図は、どなたが作ったのです」
「私ですよ」
と、歳三は言った。この男は、多摩川べりで喧嘩をしていた頃から、かならず地形偵察ていさつをし、地図を作ってからやった。たれに教えられた軍学でもない。歳三が、喧嘩をかさねてゆくうちに自得をしたものである。
「これは土方流の軍学じゃな」
と、長沼流の権助は咽喉のどを鳴らした。嬉しい時の老人の癖である。
歳三の地図は精密なものだ。このあたりを十分踏査して描き、諜報その他によって得た敵の配置を、克明に書き入れてある。
「これで戦をなさるのか」
「いや、この敵の配置は、たったいま現在のものです。もう一刻たてばどう変化するかわかりません。喧嘩の前には忘れますよ」
と、権助の見ている前で破り、そばの火鉢ひばちの中に放り込んだ。
ぱっ、と燃えた。
敵情は変化する、とらわれない、というつもりであろう。
「土方流ですな」
権助は、またのどを鳴らした。自分と一緒に戦をする男を、ひどく気に入っている。
「土方さん、あんたとわしが手痛く戦をすれば、向かうところ敵なしですよ」
「一献いっこん、汲みますか」
「いや、酒は勝ってからです。また例の会津幼童の遊び・・を聴かせましょう」
二人は、一緒に昼食をとった。
そのあと、望楼にのぼった。
「ごらんなさい」
と、歳三は足もとを指さした。ほんの足もとの近さである、御香宮は。
そこに、薩軍の本拠がある。奉行所の北塀とは二十メートルほどの距離であろう。
「土方さん、変わった」
と、権助は首を突き出した。
「あんたの地図とは、もうちがっている。薩軍はふえている」
だから歳三は地図を破った。敵というものは、どう変化するかわからない。
歳三は望遠鏡でのぞいた。
会津の林隊による奉行所兵力の増強に、敏感に対応したのである。
御香宮の東側に、小さな丘陵がある。土地では竜雲寺山と呼んでいたが、山というほどの高地ではない。
そこに薩摩藩の砲兵陣地がある。それがほぼ二倍に増強されているのである。増援された砲兵隊長は、薩摩藩第二砲隊の隊長大山弥助であった。のちの日露戦争の満洲軍総司令官大山巌いわおで、当時二十七歳。早くから江戸に出て砲術を学び、薩英戦争にも砲兵小隊長として参加した。冗談の好きな若者で、
「また大山が冗談チャリ云う」
と家中で一種の人気者だったが、この日、京都から伏見へと急行する間、ほとんど口をきかなかった。
竜雲寺山に四斤野砲をひっぱりあげると、すぐ放列を布しいた。
眼下が、伏見の奉行所である。めくら撃ちに撃っても、弾丸たまはことごとく命中するであろう。 |