~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その二 (四)
二人は望楼をおりた。時刻がやや移った。
そのころ、西の方大坂街道(鳥羽街道)では、おびただしい人数の幕軍が北上しつつあった。
「討薩表」を所持した慶喜代理の幕軍大目付滝川播磨守はりまのかみを「護衛」する、という名目の部隊が先鋒で、幕府仏式歩兵二大隊(七百人)砲四門、佐々木唯三郎が率いる見廻組二百名、という兵力である。さらにやや間隔をひらいて後続の幕軍主力が山崎にまで来ていた。
この滝川播磨守の先鋒が、鳥羽街道を北進して鳥羽の四ツ塚まで来た。
四ツ塚には、薩摩兵が陣地を構え、関門をつくっている。
幕軍は使者を出し、まず関門の通過方をうた。
薩摩の軍監は、椎原しいはら小弥太である。ほかに一名を連れただけで、大胆にも路上を幕軍に向かって歩き出した。
「貴下は何者だ」
と、幕軍の滝川播磨守は馬上で高飛車に言ったという。世が世ならこちらは幕府の大目付、相手は陪臣にすぎない。
「ここの関守でごわす」
と、椎原小弥太は幕軍に囲まれながら泰然と答えた。
あとは、通せ、通さぬの押し問答である。
(問答無用)
と、幕軍は思ったのであろう。
椎原との交渉中、歩兵指図役の石川百平はひそかに砲隊のもとに走って、
── 薩軍を撃て。
と命じた。なにぶんにも行軍中の砲である。たま装填そうてんし車輪を運動させて、まさに砲口を北方にむけようとした。
その時、薩軍の砲兵陣地の方がいち早く火を噴いた。砲兵指揮官野津鎮雄の独断による射撃命令である。
弾は飛んで、運動中の幕軍の砲一門の砲架に命中し、轟然ごうぜん炸裂さくれつした。
砲架は粉砕され、その砲側にあった砲兵指図役石川百平、大河鋠蔵しんぞうの二人は肉片になって飛び散った。
この野津の一弾が、鳥羽伏見の戦い、さらにそれに続く戊辰戦乱の第一弾になった。このとき、午後五時ごろである。すでに は暮れようとしている
 
この砲声、さらにつづく激しい小銃の射撃戦の音は、すぐ東方の伏見に聞こえた。
「やった」
と、林権助、すばやく奉行所の北方に構築してある柵門さくもんをひらき、砲を進出させ、初一発を薩摩の竜雲寺山の砲兵陣地に撃ち込んだ。そてにつれて後門を守っている新選組百五十人が路上に突出しようとしたが、歳三は押しとどめ、
「まあ、首途かどでの祝い酒を汲め」
と、用意の酒樽さかだるの鏡をぬいた、という伝説が土地に残っている。
みな、ひしゃく・・・・をまわして酒を飲み全員が飲み切らぬうちに、御香宮と竜雲寺山の二ヶ所から撃ちだす薩摩の砲弾が矢つぎ早に落下して来て、あちこちの屋根、ひさしを粉砕しはじめた。
「いまは」
と、はやろうとする一同を歳三は再び押しとどめ、
「二発や三発の砲弾に何が出来る。酒宴の花火だと思うことだ」
と全員が汲みおわるまで隊列をしずめ、やがて、
「二番隊進めっ」
と、雷のような声を発した。二番隊組長は、永倉新八である。島田魁、伊東鉄五郎、中村小二郎、田村太二郎、竹内元三郎ら十八人である。
「進め」
といっても、前は自陣の奉行所の塀。
それを永倉らは、乗り越え乗り越えして、路上に跳び下りた。
2024/04/04
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