二人は望楼をおりた。時刻がやや移った。
そのころ、西の方大坂街道(鳥羽街道)では、おびただしい人数の幕軍が北上しつつあった。
「討薩表」を所持した慶喜代理の幕軍大目付滝川播磨守を「護衛」する、という名目の部隊が先鋒で、幕府仏式歩兵二大隊(七百人)砲四門、佐々木唯三郎が率いる見廻組二百名、という兵力である。さらにやや間隔をひらいて後続の幕軍主力が山崎にまで来ていた。
この滝川播磨守の先鋒が、鳥羽街道を北進して鳥羽の四ツ塚まで来た。
四ツ塚には、薩摩兵が陣地を構え、関門をつくっている。
幕軍は使者を出し、まず関門の通過方を請こうた。
薩摩の軍監は、椎原しいはら小弥太である。ほかに一名を連れただけで、大胆にも路上を幕軍に向かって歩き出した。
「貴下は何者だ」
と、幕軍の滝川播磨守は馬上で高飛車に言ったという。世が世ならこちらは幕府の大目付、相手は陪臣にすぎない。
「ここの関守でごわす」
と、椎原小弥太は幕軍に囲まれながら泰然と答えた。
あとは、通せ、通さぬの押し問答である。
(問答無用)
と、幕軍は思ったのであろう。
椎原との交渉中、歩兵指図役の石川百平はひそかに砲隊のもとに走って、
── 薩軍を撃て。
と命じた。なにぶんにも行軍中の砲である。弾たまを装填そうてんし車輪を運動させて、まさに砲口を北方にむけようとした。
その時、薩軍の砲兵陣地の方がいち早く火を噴いた。砲兵指揮官野津鎮雄の独断による射撃命令である。
弾は飛んで、運動中の幕軍の砲一門の砲架に命中し、轟然ごうぜんと炸裂さくれつした。
砲架は粉砕され、その砲側にあった砲兵指図役石川百平、大河鋠蔵しんぞうの二人は肉片になって飛び散った。
この野津の一弾が、鳥羽伏見の戦い、さらにそれに続く戊辰戦乱の第一弾になった。このとき、午後五時ごろである。すでに陽ひ
は暮れようとしている
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