~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その三 (三)
奉行所表門。
この方は、奉行所を要塞ようさいとする幕軍の主力で、例の林権助老人を隊長とする会津兵である。
権助老人は砲三門をもって、まず竜雲寺高地の薩摩藩砲兵陣地を射撃させた。
が、一発撃つごとに、十発落下してくるようなあんばいで、火力ではなんともならず、しかも眼前二十メートルの御香宮の塀から、薩軍の銃隊が乱射してくる。
「こっちも鉄砲、鉄砲」
と、権助老人は会津の銃隊を督励するが、なにぶん火縄銃ひなわじゅうが多い。
操作におそろしく時間がかかるうえに、有効射程がせいぜい一丁ほどのものだ。
薩長兵は、ミニエー銃で装備している。当時、薩摩藩では、国許くにもとと京都藩邸に工作機械がえられており、ほとんどの銃は、藩の製造によるものである。それらの銃は、長州軍にも無償で渡されていた。性能も外国製にほとんど劣らない。
大砲なども、いま竜雲寺高地の砲兵陣地を指揮している大山弥助が、洋式野砲をみずから改造して、
「弥助砲」
というようなものまで作っている。
当時、藩兵の精強さは、会津、薩摩をもって天下最強といわれたものだが、その近代化の点では比べものにならない。
会津の戦法は、依然として古色蒼然そうぜんたる長沼流である。戦国時代からなにほども進歩していない。
その新旧が激突したのだ。
権助はついに、三門の会津砲を奉行所東端の路上に引出し、仰角をもって、竜雲寺高地にちあげた。
砲弾はほとんど、松林にあたって炸裂し、かんじんの敵陣地がつぶれない。
もっともそれでも多少の効果があり、その破片が第二砲隊長大山巌の耳たぶを傷つけた。たdし耳たぶだけのことである。薩摩砲兵の射撃は、いよいよ活発かっぱつであった。
御香宮にこもっていた薩摩の銃隊も、路上、軒下、小祠しょうしなどに散開してじりじりと南へ向って押しはじめた。
権助老人、路上で指揮し、
「もはや斬り込みじゃ」
と、刀槍隊を叱咤しったして何度か突撃したが、十メートルも進まぬうちに先鋒せんぽうはことごとく銃弾のために死骸しがいになった。
それでも権助、三度まで突撃した。が、前後左右、死屍ししを作るのみである。
権助、さらに屈しない。
「さあ、もう一度押すぞ」
と長槍を振り上げた時、同時に三発の銃弾が体をつらぬいた。
どかっ、と尻餅しりもちをついた。
立てない。
兵が抱き起こし退さがらせようとすると、
「触るな」
と払いのけ、路上に坐ったまま、指揮をとった。
夜になった。
歳三は、新選組全員を松林に終結させ、一本の松明たいまつに火を点じた。
「いいか、「この火がおれだ。この火の進む方角について来い」
松林の中の畳の砲壘ほうるい群は沈黙している。暗くなったために目標が見えないのだ。
「原田君」
と、歳三は耳うちした。
原田左之助は声が大きい。
歳三に言われた通りのことを、松林の中の敵に向い、腹の底から怒号した。
「聴け、いまから」
がなっ・・・てから一息入れ、
「新選組が斬り込むぞ」
この声は、たしかにききめがあた。
敵は新選組と言う語感に恐怖を感じた。この松林の敵は、長州の第二歩兵隊が主力である。
盲滅法めくらめっぽうに乱射しはじめた。
闇夜やみよに鉄砲さ」
歳三はその発火の位置を確かめ、どっと斬りかかった。
斬った。
歳三ひとりで四人。原田左之助などは槍が折れるほど闘い、ついに敵は崩れ立った。このとき長州側は小隊司令官宮田半四郎以下死傷二十余名。
敵は北へ逃げた。
2024/04/06
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