~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その四 (二)
「ちぇっ、運の悪い。もう五十歩で敵本陣へり込むてえところでこのざま・・か」
と、十番隊組長原田左之助は剣をさやにおさめた。
左之助のいうとおり、奉行所の火事さえなければ、伏見のおける夜戦は幕軍の勝ちになっていたかも知れない。
いや、この戦闘正面だけでなく鳥羽伏見の戦いそのものが、いかなる国のいかなる名参謀が検討しても、図上戦術に関するかぎり幕軍が勝つべき戦いである。
京都の薩長は、兵力少数である。
予備軍も少ない。手一ぱいの兵を出している。鳥羽と伏見の御香宮の前線がもし崩れれば、退却、天子を擁して京を脱出、とまで薩軍の首脳部は考えていた。
なるほど、兵器は薩長がすぐれていた。
が、幕軍の方も、背嚢はいのうを背負って完全洋式化したいわゆる「歩兵」をぞくぞく西上させつつある。
その人数も圧倒的に多い。
だが、戦意がなかった。薩長のように必死でなかった。この点も、日本史に封建体制をもたらした関ヶ原の合戦に似ている。
関ヶ原の戦いも図式的に見れば西軍がける戦いではない。人数も多く、戦場における地の利もよかった。ただ西軍に戦意がとぼしく、必死に働いたのは石田三成、大谷吉継よしつぐ隊、宇喜多秀家ぐらいのものである。
鳥羽伏見の戦いにおける第一日も、必死に戦闘したのは、会津藩と新選組だけであった。しかもそれらは不幸にも、刀槍とうそう部隊で洋式部隊ではない。
英国人サトーでさえ幕軍主力を嘲笑ちょうしょうしている。
「一万の大軍を擁しながら意気地いくじのない連中だ」
と。──英国ははやくから幕軍の腰抜けに見切りをつけ、薩長による日本統一の構想をひそかに後援してきたが、
「自分たちのけは裏切られなかった」
と、安堵あんどした。
歳三、──
路上に立っている。東南方の奉行所の猛火が、歳三の姿をくっきりと浮かび上がらせた。
(戦は勝つ)
と、歳三は信じている。この幕軍最前線の修羅場しゅらばさえ死守しておれば、明朝には洋式武装の幕軍歩兵が大挙してやって来るのだ。げんにその先発の幕軍の仏式第七連隊がすでに伏見に入りつつある。
幸い、友軍の会津藩兵は、ひどい旧式装備ながらも、その藩士は、薩摩とならんで日本最強の武士、といわれた本領をみごとに発揮し、例の林権助隊長などは、体に三発の弾をくらいながらも、一歩も退かない。
ところが。
午後八時ごろになって、歳三が伝令として使っていた平隊士野村利八が駈け戻り、
「御味方、退しりぞきつつあります」
と報告した。
「うそだ」
と歳三はどなり、二番隊組長永倉新八らに確認を命じた。
2024/04/08
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