~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その四 (四)
官兵衛六百石。のち会津に帰ってから、各地で転戦し、軍事奉行頭取となり、会津白落城の寸前には家老になって作戦を掌握し、落城まで戦った。維新後警察庁に奉職し、明治十年の西郷の乱(西南戦争)には警視庁よりぬきの剣客を率いて「官軍」の巡査隊長となり、戊辰ぼしんののうらみを晴らすべく薩軍にしばしば斬り込みをかけ、ついに戦死した。大砲奉行の林権助とともに、いかにも会津武士らしい男である。
「それにしては」
よ、歳三は首をかしげた。
「薩長は追撃をしませんな。追撃する余力がないとみたが、佐川さんはどうです」
「土方さん」
と、佐川官兵衛は別なことを言った。
「われわれは踏みとどまりましょう
「あたりまえですよ」
と、歳三はすぐ負傷者の後送について、会津藩に依頼した。
調べてみると、戦死者は、会津藩、新選組を含めて三百人。重傷者はほぼ百数十人とわかったから、すぐ看護隊を組織して後送した。
その直後、薩長兵が襲来した。
「斬り込め」
と、歳三は、白刃をふるって京町通を北へ駈けた。新選組六十余名、それに残留した佐川官兵衛指揮の会津藩兵がこれに続いた。
ばたばたと銃丸がで倒れた。
「駈けろ」
敵軍に飛び込む以外に手がない。
両軍、激突した。すさまじい白兵戦になった。
歳三、飛びちがえては斬り、飛びちはえては斬った。
白刃の乱闘となれば、新選組のお家芸である。
さらに会津の槍隊が穂先をそろえて突入して来た。
薩軍というのは剽悍ひょうかんだが、新選組のように剣客を揃えているわけではなく、白兵戦でも不馴ふなれであった。それに、薩摩人の特徴で、
がわるい」
となると、粘着力がない。下手な戦でねばるよりも遁げたほうが戦術的にもいい、という合理的な思想が、古来ある。
後の西南戦争の時も、熊本から西郷軍に参加した肥後人は、薩摩人のこの癖には閉口したという。いったん敗勢になった場合、あっという間に逃げ、肥後人が気づいた時にはあたりには薩摩兵がたれもいないというほどのすばしこさであった。
この場合も、乱軍のなかにいた薩摩の隊長が、
退くんじゃあ、みんな」
とひと声あげた。そのあとはもう、スポーツと言っていいほどのさわやかな逃げ足で散ってしまった。
「追うな」
歳三も隊士の足をとめた。こっちも追撃して敵の主力と衝突するほどの兵力がないのだ。
「退けっ」
両軍退却、といった妙な戦である。もとの屯集所にもどった。
もどると、幕府総督松平豊前守からの使番が来ていた。
「高瀬川の西岸まで退いてほしい」
という。
歳三がきただしてみると、いったん退却した幕府歩兵第七連隊は、豊前守の命令で高瀬川西岸に踏みとどまり、築造兵(仏式工兵)をして野戦陣地を構築中であるという。
「なんだ、おれは大坂まで逃げたのかと思った」
と、歳三はあざ笑った。
「ご親切だが、新選組と佐川さんの会津兵はここでとどまります」
「しかし、敵の包囲をうけますぞ」
「冗談じゃない。薩長に包囲するだけの人数があれば、第七連隊の退却の時に追尾してあんたなどはいまは生きちゃいませんよ」
「しかし」
「われわれはとどまる」
歳三は使番を追い返した。
2024/04/09
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