~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
鳥羽伏見の戦い・その四 (五)
事実、京都の薩長には兵力の余力はまったくなかった。軍資金も同様で、朝廷で重臣の持ち金を搔き集めさせたのが、たった五十両であったという。歴史を転換させた戦いでその勝利側の兵站部へいたんぶに五十両の準備金しかなかったという例は、世界史上稀であろう。そういう相手に対し、旧政府軍であるはずの幕軍がなぜ負けたのか。
 
ほどなく二人目の使番が来た。
やはり、
「後退せよ」
という。
歳三はばかばかしくなって、
「高瀬川西岸の陣地は出来たのかね」
と聞いた。
「まだです」
「その築造中を夜襲されたらどうする」
「さあ」
歳三は笑いだした。
「後退しよう。ただ、高瀬川陣地が出来あがるまでわれわれはここで支えている」
急造陣地が完成したのは午前零時すぎで、歳三たちは午前一時すぎ、陣を払って高瀬川陣地までさがった。
翌四日。
この水郷すいごう特有の濃霧の朝で、が昇ったとはいえ、数尺向うも見えなかった。
この気象も、慶長五年九月の関ヶ原の合戦がはじまる朝に似ている。
ただ雨は降っていない。そのうえ寒気がひどく、水溜みずたまりには厚い氷が張っていた。
天祐てんゆうともいうべき霧だな」
と、歳三は仮眠から起きあがってつぶやいた。
濃霧のために、敵砲兵が射撃出来ず沈黙したままなのである。
天祐と言ったのは、
(時間がかせげる)
と思ったのだ。実を言うと、大坂から夜を徹して急行軍しつつある幕軍の洋式部隊第十一連隊が予定ではもう到着していいころだった。指揮官は、佐久間近江守おうみのかみ信久であった。幕府の歩兵奉行で、骨柄こつがら といい、容貌ようぼうといい幕臣の中ではめずらしく三河武士らしい豪宕ごうとうさを持った男だったという。
佐久間とは別に一個大隊を率いてやって来るはずの歩兵頭ほへいがしら窪田くぼた備前守鎮章しずあきも、決して弱将ではない。ただ彼が率いている大隊は大坂で急募した町人兵で、なかには長州の間者も混じっているという噂であった。
いや、第十一連隊指揮官佐久間近江守の馬の口取り英太という者は長州の間者であったということが明治後わかった。
午前七時。
これらのフランス士官が訓練した幕兵がぞくぞくと戦場に到着した。
「左之助、鉄砲屋が来たよ」
と、歳三は喜んだ。
午前八時、霧晴る。
快晴。
たちまち両軍の砲撃戦が、鳥羽伏見の天地にこだましはじめた。
新選組は幕軍十四大隊の洋式火器に援護されつつ、薩軍一部隊のまもる中島村に接近し、白兵突撃を行なって一挙に占領した。
大坂街道では佐久間近江守の第十一連隊が大いに進出して薩長側を圧迫した。
淀山橋方面では、会津部隊の一部白井五郎大夫ごろうだゆうの隊が砲二門をもって進撃し、ついに薩長兵を潰走かいそうせしめ、下鳥羽北端、というほとんど敵陣地にまで進出している。
戦闘第二日目は幕軍の勝利で、この戦況が御所に伝わるや、公卿たちが色を失って騒いだという。兵力薄弱の薩長兵士を「官軍」としたことが軽率だったというのである。
戦闘第三日目の正月五日も快晴。
両軍の勝敗、容易に決しなかったが、幕軍歩兵の指揮官佐久間近江守、窪田備前守が、前日の戦闘で指揮官みずから戦闘に立って斬り込んだため、相ついで戦死し、このため幕府の洋式部隊の活動がにぶった。潰走しはじめる隊が多く、会津藩、新選組が、自軍の退却を食い止めるのに必死になった。
淀堤よどづづみを退却する幕府歩兵、新選組原田左之助と会津藩士松沢水右衛門が剣を抜いてさえぎり、
「なぜ逃げる。戦は敗けておらんぞ」
とどなったが、ついに支えきれず、
「大砲を置いて行け、大砲を」
と、奪い取った。
 
が、すでに朝廷では薩長土をもって、
「官軍」
とすることを決定し、仁和寺宮にんなじのみやが総督として出陣したため、山崎の要塞ようさいを守っていた幕府方の藤堂藩が寝返りを打ち、このため幕軍は、挟撃きょうげきされる戦勢となった。それをおそれて、幕軍中最弱の歩兵がまず潰走したのである。
そのうえ、京にあって中立を守っていた諸藩が、
錦旗きんきあがる」
という報とともに、薩長の戦線に参加し、それが誇大に幕軍に伝わった。
会津・桑名両藩および新選組は、部分的な戦ではほとんど六分の勝ちをおさめていたが、午後になって、ついに主力の敗走にひきずられた。
この日、歳三はついに三十人にまで減少した隊士を掌握しつつ淀堤千本松に幕軍歩兵指図役を呼び、
「最後の一戦さをしよう」
と約束し、剣をふるって路上を突撃した。
しかしついて来る者は、新選組のほかは、会津藩の生き残り林又三郎(権助の子・この路上で戦死)以下数人であったという。
 
歳三は、大坂へもどった。
敗走兵でごったがえしている大坂では、おどろくべき事実が待っていた。
2024/04/10
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