とにかく、潰走。
そうには違いない。歳三は、無傷の者は淀川べりを徒歩で南下させ、負傷者は三十石船に収容して大坂へ下った。
(敗けたかねえもんだな)
と思ったのは、隊士の貌かおつき、肩の姿までかわっている。どう見ても敗軍の兵であった。十番隊組長原田左之助のような威勢のいい男までが、槍やりを杖つえによりかかるようにして歩く。
歳三は馬からおり、
「左之助、元気を出すんだ。隊士が見ていることを忘れるな」
と言った。
左之助は、疲れもしていた。が、平素威勢のいい男だけに、敗け戦となると、ぐったりと来るのだろう、──歳三をじろりと見て、
「あんたのようなわけにゃいかねええよ」
と言ったきり。精も根こんもつきはてたという様子で歩いて行く。
「みな、大坂がある」
と歳三は馬上にもどって励ました。大阪城には、将軍がいる。幕府の無傷の士卒が数万といる。武器もある。
「城は、金城湯池きんじょうとうちだ。これに拠より、将軍を擁して戦うかぎり、天下の反薩長の諸藩はこぞって立ちあがる」
どう見ても勝つ戦である。なるほど、鳥羽伏見では、実際戦闘したのは、会津藩、新選組、見廻組みまわりぐみぐらいのもので、藤堂藩などは山崎の砲兵陣地を担当しながら、みごとに寝返った。幕府直属の洋式歩兵は、戦うよりも逃げることに忙しかった
が、主力は大坂にいる。しかも、城は、秀吉が築いたとはいえ、家康以来西国大名(とくに毛利・島津)の反乱行動にそなえて、保全に保全をかさねてきた大要塞である。
(とうてい、薩長の兵力では陥おとせまい)
歳三ならずとも、古今東西のいかなる軍事専門家でもここは楽観するところであろう。
「大坂で、戦のやりなおしをするんだ」
歳三は、みなを鼓舞した。
歳三はまちがってはいない
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