~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
大 坂 の 歳 三 (一)
とにかく、潰走。
そうには違いない。歳三は、無傷の者は淀川べりを徒歩で南下させ、負傷者は三十石船に収容して大坂へ下った。
(けたかねえもんだな)
と思ったのは、隊士のかおつき、肩の姿までかわっている。どう見ても敗軍の兵であった。十番隊組長原田左之助のような威勢のいい男までが、やりつえによりかかるようにして歩く。
歳三は馬からおり、
「左之助、元気を出すんだ。隊士が見ていることを忘れるな」
と言った。
左之助は、疲れもしていた。が、平素威勢のいい男だけに、敗け戦となると、ぐったりと来るのだろう、──歳三をじろりと見て、
「あんたのようなわけにゃいかねええよ」
と言ったきり。精もこんもつきはてたという様子で歩いて行く。
「みな、大坂がある」
と歳三は馬上にもどって励ました。大阪城には、将軍がいる。幕府の無傷の士卒が数万といる。武器もある。
「城は、金城湯池きんじょうとうちだ。これにり、将軍を擁して戦うかぎり、天下の反薩長の諸藩はこぞって立ちあがる」
どう見ても勝つ戦である。なるほど、鳥羽伏見では、実際戦闘したのは、会津藩、新選組、見廻組みまわりぐみぐらいのもので、藤堂藩などは山崎の砲兵陣地を担当しながら、みごとに寝返った。幕府直属の洋式歩兵は、戦うよりも逃げることに忙しかった
が、主力は大坂にいる。しかも、城は、秀吉が築いたとはいえ、家康以来西国大名(とくに毛利・島津)の反乱行動にそなえて、保全に保全をかさねてきた大要塞である。
(とうてい、薩長の兵力ではおとせまい)
歳三ならずとも、古今東西のいかなる軍事専門家でもここは楽観するところであろう。
「大坂で、戦のやりなおしをするんだ」
歳三は、みなを鼓舞した。
歳三はまちがってはいない
 
京の官軍の頭痛の種もここにあった。官軍には、追撃力さえなかった。追撃して戦果を拡大するのが軍の常識であったが、兵数が足りない。
当時、京都に薩長連合軍の作戦に参画していた長州藩士井上多門たもん(のちのかおる・侯爵)なども、
「幕兵はかならず大阪城に拠るにちがいない。察するところ彼らは、大坂を拠点として兵を四方にのばし、兵庫(神戸)の開港場をおさえて、外国からの武器輸入をはかり、かつ薩長の国モトから増援部隊の上陸をこばみ、かつ、その優位なる艦隊で瀬戸内海を封鎖するであろう。さすれば京のわれわれは、袋の鼠である。
かつ、幕府譜代大名の若州じゃくしゅう小浜藩兵などは、大津口をおさえてしまう。京の市民の米はおもに近江から来ているから、市民は餓死せざるを得ぬ。こうなれば、われわれ少数の在京軍は負けである。この上は、急ぎわしは国モトに帰り、国モトの兵をこぞって、山陰、山陽から畿内きないへ攻めのぼって来る。薩摩もそうしてもいらいた、その手しかない」
と弁じ、薩摩側も賛成し、国モトの兵がのぼって来るまで、八幡、山崎の洛南らくなんの丘陵地に砲台を据えるだけで持久のかたちをとろう、ということに一決した。
歳三の戦況に対する楽観は、当然のことであったのである。
2024/04/13
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