守口まで下って来た時に、西南の天に大阪城の五層の天守閣が見えた。
「見ろ」
と、歳三はむちをあげて言った。
「あの城があるかぎり、天下はそうやすやすと薩長の手には渡らんぞ」
心境、大坂冬・夏ノ陣の真田幸村のような感慨であったであろう。もっとも幸村のときは敵は逆に徳川家dせあったが。
しかし、一軍、惨さんとして声がない。みな、伏見口で、おそるべき銃火をあびた。薩長軍の元込銃もとごめじゅうは、会津藩のサキゴメ銃が一発うつごとに十発うつことが出来た。会津藩の火縄銃ひなわじゅうなどは一発弾ごめしているうちに、むこうは二十発をあびせてきた。
(どうやら世の中が変わった)
という実感が、実際に銃火をあびせられて隊士たちは体で知った。単なる敗軍でなく、そういう意識の上での衝撃が大きかった。
(ばあに、あんな銃は買えば済む)
歳三だけは、たかをくくっている。
が、幕軍の負傷兵はおびただしいもので、河をつぎつぎと下って来る者は、どの男も繃帯ほうたいを真赤にしていた。ほとんどが刀槍による傷ではなく、砲弾、小銃弾による傷で、手や足をもがれた者、あご・・を破片で噛かみ取られた者、体に三発もの弾を撃ち込まれた者など、酸鼻をきわめている。 |