~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
大 坂 の 歳 三 (二)
守口まで下って来た時に、西南の天に大阪城の五層の天守閣が見えた。
「見ろ」
と、歳三はむち・・をあげて言った。
「あの城があるかぎり、天下はそうやすやすと薩長の手には渡らんぞ」
心境、大坂冬・夏ノ陣の真田幸村のような感慨であったであろう。もっとも幸村のときは敵は逆に徳川家dせあったが。
しかし、一軍、さんとして声がない。みな、伏見口で、おそるべき銃火をあびた。薩長軍の元込銃もとごめじゅうは、会津藩のサキゴメ銃が一発うつごとに十発うつことが出来た。会津藩の火縄銃ひなわじゅうなどは一発弾ごめしているうちに、むこうは二十発をあびせてきた。
(どうやら世の中が変わった)
という実感が、実際に銃火をあびせられて隊士たちは体で知った。単なる敗軍でなく、そういう意識の上での衝撃が大きかった。
(ばあに、あんな銃は買えば済む)
歳三だけは、たかをくくっている。
が、幕軍の負傷兵はおびただしいもので、河をつぎつぎと下って来る者は、どの男も繃帯ほうたいを真赤にしていた。ほとんどが刀槍による傷ではなく、砲弾、小銃弾による傷で、手や足をもがれた者、あご・・を破片でみ取られた者、体に三発もの弾を撃ち込まれた者など、酸鼻をきわめている。
 
「それはもう、戦争(鳥羽伏見の戦い)のときは、えらいさわぎでおました。わてらが京橋(大坂)の方へ逃げて行くと、血みどろの幕軍方の侍が、ぎょうさん舟で淀川をおりて来ました」と、この当時の目撃者が、その後長く生きていた。大阪市北区此花町このはなちょう一の稲葉雪枝さんである。百一歳のとき高齢者として市からお祝いを受けたが、その新聞記者が会いに行った時の第一声が「戦争の時は」であったという。彼女は、単に戦争と言った。記者は大東亜戦争のことだと思ったが、よく聞いてみると、鳥羽伏見の戦いのことであった。
2024/04/13
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