~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
大 坂 の 歳 三 (四)
沖田総司の部屋を訪ねると、ちょうど徳川家侍医松本良順が、枕頭ちんとうに坐っていた。
「やあ、あんたが土方さんか。私は毎日、近藤さんや、この土方さんにあんたの名前を聞いているから、もう百年の知己のような気がする」
と挨拶もなくいきなり言った。としのころは、近藤よりもすこし上の三十七、八で、目鼻立ちが大きく、医者とは思えないほどの豪毅ごうきな顔つきの男である。このあと東北に転戦したり、明治後とくに許されてついには軍医総監になるほどの男だから、戦が好きらしい。
「なあに、鳥羽伏見なんざ、敗け戦じゃないよ。まあ、話を聞かせてくれ」
「まあ、それはあとにして」
と、沖田の顔をのぞき込んだ。
沖田は微笑している。例の、この男特有のがそこだけにしているような明るい微笑であった。
「が、めっきりせやがったな」
「沖田君は、大丈夫さ」
「そうですか」
歳三は、疑わしそうに良順を見た。良順の表情から微笑が消えている。
「やはり、むずかしいのか」
「土方さん」
と、沖田は口を開いた。
しゃるな。この病は疲れるといけねえ」
と歳三は、沖田の手をとろうそした。
が、沖田は、気はずかしそうに手を掛け布団の中にもぐり込ませた。
痩せている。胸に肉というものがなかった。沖田はそれが恥ずかしかったのだろう。
「おらァ、隊務を残している。行く。しかし総司、毎日来てやるぞ」
「土方さん」
と、沖田は、枕頭の梅の枝へ視線を走らせ、指でさすようにしなから、
「お雪さんがいけけてくれたものです」
「なに?」
歳三は、立ち上がりかけて問い返した。
「お雪て、どこのお雪だ」
「ほら」
沖田は歳三の眼をのぞき込み、ただ微笑するだけで、うなずいた。
「大坂に来ています。毎日、ここへ見舞いに来てくれます」
「そういえば近藤の部屋にも、おなじ梅の枝があったな」
「そうでしょう。しかし、お雪さんはここへ来ても土方さんのうわさをひとこともしません」
(そういう女だ)
歳三はふと遠い眼をしたが、もう立ちあがっていた・。が、狼狽ろうばいしている証拠に、松本良順への挨拶を忘れている。
良順がなにかからかったようだが、歳三はすでに廊下に出てしまっている。
(お雪か)
と後ろ手で障子をしめたとき、中壺なかつぼにふりそそいでいるほそい雨を見た。
(会いたい・・・・)
歳三は、廊下をひそひそと歩き、やがて気が付いた時にはえんにしゃがんで沈丁花じんちょうげの小さな灌木かんぼくを見つめていた。
(お雪、また、故郷くにの昔話でも聞いてくれねえかなあ)
歳三の眼いっぱいに雨が降っていたが、しかしその瞳孔どうこうは何も見ていないようでもあった。痴呆ちほうのような顔をしていた。雨気にしめりはじめたせいか、肩に残っている硝煙の匂いが、かすかに鼻にただよった。
「くだらねえ戦だったよ」
と、歳三は声を出してお雪につぶやきかけていた。
「しかし、大坂で一戦さやるさ」
「土方さん」
と、背後で声がした。
ぎよっと、振り向いた。
さっきの松本良順が立っている。歳三はこの時の良順の、なんというか名状しにくい表情をんもちのちまで覚えていた。
「知らなかったのかね」
と良順は言った。
慶喜うえさまも会津中将も、もうお城にゃいないんだよ」
「えっ」
「お逃げになったのさ」
「そ、それを、近藤も沖田も知っていたのですか」
「知っている。せっかく難戦苦闘してきた君には。伝えにくかったのだろう」
(置き去りにされた。──)
という実感は、歳三だけではない。鳥羽伏見で戦った武士たちはむろんのこと、死者たちのすべての気持であったろう。
「詳しく話して下さい」
と、歳三にはもうお雪の幻影はない。
慶喜は、味方からも逃げた。
2024/04/16
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