~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
大 坂 の 歳 三 (五)
事実、慶喜は味方からも逃げた。鳥羽伏見方面における戦況の不利が大阪城内に速報されたとき、城内ではわきたち、主戦派が当然の戦術的助言として、
「一刻も早く城を出て、御出陣なされますように。家康公以来の御馬標おうまじるしを先頭にお立て遊ばすならば、旗本、譜代大名の臣、ことごとく御馬前に死ぬ覚悟をもって戦いまする。兵数われにあり。かならず勝つことは間違いないでありましょう。しかも、摂海にはすでに海軍が軍艦をうかべて、御下知を待っておりまする」
と切言した。慶喜の側近はことごとくこれに和したため、慶喜はついに立ち上がり、
「よし、これより直ちに出馬する。みなみな用意をせよ」
と、言った。とくに会津藩士はどよめき、喜び勇んでみな持場々々にもどった。
そのすきに、慶喜は脱出した。正月六日夜十時ごろである。数人を従えたのみであった。その数人の筆頭が、なんと、かつては京都で守護職で威をふるった会津中将容保かたもりである。会津藩士は、その会津藩主からも捨てられた。容保という男については、沈毅ちんき、の言葉をもって多くは評する。しかし、「貴人、情を知らず」という言葉があるとおり、生まれつきの殿様というものは、所詮しょせんは、どたん場になっての感覚が、常人とはちがっているようである。歳三ら新選組は、二人の主人に捨てられた。会津藩主と、慶喜と。
桑名藩兵も鳥羽方面で、惨烈な戦いをしたが、その藩主松平越中守(容保の実弟)も、この数人の逃亡貴族の中に加わっている。慶喜もそうであったが、この二人の大名は、自分の側近にさえ、「逃亡」を知らさなかった。
彼らは、夜ひそかに大阪城の裏門から出た。裏門を出る時衛兵が見とがめて、
「何者か」
誰何すいかしたが、慶喜に従ってた。天いる老中板倉伊賀守が、
「御小姓の交代です」
といつわって難なく城を出ることが出来た。あとは夜の大坂を走り、八軒家から小舟に乗り、川を漕ぎ下って海へ出保山てんぽうざん沖には、幕府の軍艦が四せき、イカリをおろしている筈であった。
が、海面は暗い。
他の諸外国の軍艦も碇泊ていはくしている。慶喜らは、どこに幕府軍艦がいるのか探しあぐねて、ついに、一番距離の近い所にいる米国海軍に行き、一夜の宿をうた。米軍艦長は、一行を艦長室に迎え入れた。早暁そうぎょう、港内のぐあいが見えてきた時、幕府軍艦開陽丸に移った。
慶喜らがいなくなった、と城内が知ったのはその翌日になってからのことであった。城中、みな茫然ぼうぜんとした。
明治のジャーナリスト福地源一郎(桜痴)はこの時幕府外国奉行支配翻訳方として、大坂城内にあった。歴とした旗本である。それが書き残している。(以下、大意)
この六日夜は、私は城内の翻訳方の部屋で、同僚と上役の悪口を言ったりして、タバコをくゆらせていたが、果ては雑談にも飽き、毛布を取り出していつものようにごろ寝をした。ところが夜半になって、友人の松平太郎が洋式に武装して入って来た。
「君たちは何を落ちついているんだ」
と親指を立て、
これ・・ はもうとっくにお立ちのきになりましたぞ」
そう言った。私は、「太郎殿、この場だ、冗談にもそういう不吉なことは云いたまうな」とたしなめると、
「疑うなら御座の間へ行ってみたまえ」
と、太郎は立ち去った。
松平太郎は、将軍退却後、ただちに歩兵頭を命ぜられている。だから太郎から聞いたこの「私」の福地源一郎は、城中で最も早耳の一人でだったであろう。
歳三は、なお疑いが晴れず、大手門から馬を入れて重職らしいものをつかまえては聞いてみた。
「まことでござる」
と、みな言う。
その証拠に、早くも機密書類を燃やす煙がぼうぼうと立ちはじめている。
「貴殿」
と、相当な旗本が言った。
「われわれも知らなんだ。しかし、天保山沖には榎本えのもと和泉守(武揚たてあき)率いるところの幕府海軍が多く碇泊している」
「では、まだ戦をするということですな」
「いや、われわれの身柄みがらはぶじ軍艦で運んでくれるということじゃ」
「馬鹿」
と、歳三は、その武士を殴り倒した、武士はよほどはげしく殴られたのか、動かなくなった。
(とっ)
歳三は、馬上にもどった。慶喜、容保に対するむかっ腹が、ついつい、男に手を出させた。気の毒した、と思ったのだろう、
「おれは新選組の土方歳三だ。遺恨があればかけあいに来なさい」
馬首をめぐらせると、さっと大手門に向って駈け出した。
(おれァ、やるぞ)
慶喜が逃げようと容保が逃げようと、土方歳三だけは戦う。
慶喜、容保にはそれなりの理屈がある。
が、歳三のは喧嘩けんかの本能しかない。
2024/04/17
Next