~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
松 林 (二)
京橋の代官屋敷にもどると、隊長代務をとる二番隊組長永倉新八が出て来て、
「土方さん、知ってるかい」
と、この男らしい不敵な笑いをうかべた。
「この件だろう」
歳三は親指を立てた。
「ああ、知っていたのか」
「永倉君。隊士はどうだ」
「別に動揺がないように思う。もとも伏見で募った五、六人が、ぶらっと外出したきり、居なくなった」
「長州の間者だった、としておきたまえ。隊士の士気にかかわる」
ほどなく、大阪城の残留組の中での最高官である理億軍奉行・若年寄なみの浅野美作守みまさかのかみ氏祐うじひろから登城するように、との達示がきた。
歳三は、城内大広間に入った。なにしろ歳三の身分は、大御番組頭おおごばんくみがしらである。
城内の幕臣らの中では、上席なほうであった。
「大評定でもあるのですか」
と、歳三は、新任歩兵頭の松平太郎に訊いた。太郎とは、のちに函館まで遠征する運命になる。
「知りませんな」
松平太郎は、にこにこして、歳三にしきりと伏見戦争の話を聞きたがった。
好意を持っている。
丸顔で色が白く、まだ若い。洋装の戎服じゅうふくの似合う男であった。旗本の家に生まれ、早くから蘭学らんがくに興味を持ち、幕府の洋式訓練も受けた男である。函館では、外国人から、
「彼はフランスの貴族出身の陸軍士官をほうふつさせる」
と言われた。
旧弊な旗本の中から、もはや新種といっていいこういう若者が生まれて来ている。
「土方先生の雷名はかねて承っておりました」
「いや」
歳三は話題をそらせ、鳥羽伏見における薩軍の銃器と射撃戦法をくわしく話したあと、
「松平さん、新選組もゆくゆくあれに切りかえますよ」
「それァいい。賛成です。刀槍とうそうどころか、火縄銃ひなわじゅう やゲーベル銃も、もはや銃ではありません。元込の連発銃がそろそろ外国でも出はじめている時代です。戦争は兵器が決定します」
「まったくそうだな」
「土方先生、これを機会にお近づき願えませんか」
「私のほうこそ望むところです。ところで、洋式戦闘のわかりやすい書物をお持ちではありませんか。一冊読めばなんとかかたちがつくという」
「これはどうです」
松平太郎は、ポケットから和綴わとじ木版刷もくはんずりの小冊子を取り出した。
歩兵心得
とある。
幕府の陸軍所から刊行した正式の歩兵操典である。「千八百六十年式」とあるのは、西暦であった。オランダ陸軍の一八六〇年度のものを翻訳したものである。
歳三がぱらぱらとめくると、物の呼称がオランダ語になっているが、見当はついた。
「ソルダート、とは平隊士のことですな」
「ほう、土方先生は蘭語をおやりですか」
「あてずっぽうですよ。なるほど、コムパクニーというのは、組ということらしい。オンドルオフィシールというのは士分で、コルポラールは下士か」
「おどろきましたな」
「こんなことは、和文の中のカナ文字だから見当はつきますよ。しかしこれは旧式のヤーゲル銃の操法ですな」
「そうです」
「あいつは会津も持っていてさんざんやられたから、新式銃のはありませんか」
「いや、銃の操法はちがいますが、隊の仕組みはかわりません。だからその本でも多少お役に立つでしょう」
「まあ、ないよりましだ」
歳三が読みふけっていると、やがて浅野美作守が現れて、江戸へ送る大坂残留兵の輸送法について指示をはじめた。途中、
「土方殿」
と、美作守が言った。
歳三は、「歩兵心得」を読んでいる。ひどくおもしろい。喧嘩の書である。歳三はこの年になってこんな面白い本を読んだことがなかった。
「土方殿」
と、美作守が、歳三のひざをつついた。
(え?)
という表情で、歳三は顔をあげた。
「貴殿の新選組は、十二日出帆の軍艦富士山ふじやま丸に乗っていただきます。天保山岸壁に集結は十二日の早暁四字よじ
「承知しました」
軽く頭を下げ、そのまま眼を「歩兵心得」におとした。
(面白え)
この瞬間、城中でこれほど生き生きした表情の男はなかったろう。
2024/04/19
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