(十二日なら、まだ間があるな)
歳三は馬上、濠端を北に向かった。右手は現在いまでいえば大阪府庁であろう。いちめん松林で、ちょっとさがって御定番ごじょうばん屋敷など大小の武家屋敷が、ずらりと並んでいる。
歳三は、馬を北に進めた。
北の空が眼に痛いほどに晴れている。数日前、さんざんの敗北を遂げたことなど、嘘のような天地であった。
(地なんてものは、人事にかかわりもなく動いてやがるものらしいなあ)
歳三はふと、少年のような感傷におそわれた。この男の、時として出る癖である。
彼が時々兄ゆずりの下手な俳句をひねるのは、たいていこういう時であった。
ふと川風が、鼻に聞こえて、新選組の宿陣である大坂代官屋敷(いまの京阪天満駅付近)も近いであろう。
前の方、やや右手に京橋口の城門が見える。
その京橋口の前あたりから南北にかけて長い土手があり、老松のびっしりと生いならんだ林になっており、城の北郭きたくるわの風情ふぜいをひどく優美にしていた。
鷗かもめが、その松林の向うを飛んでいる。
河に潮がさしのぼっている様子であった。
松林まで来た時、
(あっ)
と、歳三は馬からおりた。
自分でもはしたなく思うほどうろたえていた。
松林に、お雪がいる。
遠い。
(まさか)
と思ったが、馬の口をとって歩きはじめた。
女も、歩きだした。
歩きはじめてからその体のくせで、お雪であるとわかった。
「大坂へいらっしゃっていたそうですな」
歳三は、微笑した、つもりである。が、微笑にならぬほど、動悸どうきがはげしかった。
歳三はおそらく、少年のような顔をしていたであろう。
「叱しかられるかと思いましたけど」
お雪は、出来るだけ翳かげのない表情をつくろうとしてつとめているようであった。
あかるく微笑わらっていた。
が、その頬ほおを指先ででもつつけば、もう崩れそうになる危険が、歳三にも感ぜられた。
「お雪さん、ここで待っていてください。すぐ参ります」
歳三は、徒歩でもほんの五分ほど向うの代官屋敷へ馬で駈けた。
あっ、と飛び降り廊下を歩きながら、
「オフィシール(士官)は集まってくれ」
と、言った。
みな、きょとん・・・・とした。口走った歳三も、はっと気がついた。さきほど読んだ「歩兵心得」の言葉が、頭に焼き付いていた。
「いや、組長、監察、伍長ごちょうだ」
と言い直すと、みな集まった。
「われわれは十二日、富士丸で東帰する。当夜の屯営とんえい出発は、丑ノ刻ごぜんにじとしよう。再挙は関東にもどってからだ。ところで」
と、歳三は顔をあからめた。
「私に、二日の休暇を頂きたい」
「どこへいらっしゃいます」
と、永倉新八が聞いた。原田左之助も、
「あんあたが休暇をとるとは、めずらいいことがあるものだ」
生真面目きまじめじに言った。
「私には、女がいる」
あっ、とみんなが驚いた。歳三に女がいる、いない、ということより、そういうところがあっても妙に隠しだてしてきた性癖のこの男が、開き直ったように言ったからである。
「いるんだ、自分の女房であると思い、それ以上にも思っている」
「わかった」
原田が押しとめた。
「お行きなさい。あんたが不在中の隊務は、私と永倉と、そしてここにいる諸君とで見てゆこう。呼び集めた本旨は、富士丸などよりもそれだったのだろう」
「恩に着る」
「当然なことだ。しかしあんたにもそういう女がいたということは、嬉しいことだ」
皮肉ではない。原田左之助が涙ぐむように言った。
歳三に通かよっている血は、鬼か蛇じゃのように言われているからだ。
「おれまで嬉しくなってきた」
と、永倉は顔を崩した。原田にも永倉にも女房というものがいる。が、この戦乱で、二人とも自分の女房がどこにいるにかも知らない。
歳三は、みなを引取らせて、着替きがえをした。紋服、仙台平の袴はかまをつけた。
いそいで、宿陣を出た。
松林へ行った。
暮色がこめはじめている。
「お雪殿」
影が動いた。
歳三は抱き寄せた。もうたれが見ていてもかまわない。
「お雪殿。どこか、水と松の美しい所へ行こう。二日、休暇をとった。そこで、ふたりで暮らそう」
「── うれしい」
と、お雪は聞えぬほどの声で言った。
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