お雪は駕籠。
歳三は、そのわきを護まもるようにして歩き、やがて、下寺町から夕陽ヶ丘へ登る坂にさしかかった。
両側は、寺の塀へいがつづく。
坂には人通りがない。これでも市中なのだが、あたりは大小何百という寺院が押しならんでいる台地だけに、森寂としていた。
「なんという坂だ」
「へい、くちなわ坂、とこのあたりでは呼んでいますんで」
と、駕籠かきが答えた。
「おかしな名だな」
「べつにおかしくもございません。坂の上へ登りつめてごらんになればわかります」
なるほど登りつめてから坂を見おろすと、ほそい蛇くちなわがうねるような姿をしている。
「それでくちなわ坂か」
歳三は、この土地の即物的な名前のつけかたがおかしかった。
登りつめても、寺、寺である。
月江寺という高名な尼寺がある。その裏門へ駕籠がまわると、そこには寺がなく、鬱然うつぜんとした森があった。
森に冠木門かぶきもんがあり、粋いきな軒行燈のきあんどんがかかげられている。
西江庵
料亭である。
「へい、ここでございます」
と、駕籠かきが駕籠をおろし、相棒のひとりが門からの小径こみちを駈かけて行った。客が来たことを報しらせるつもりであろう。
「ご苦労だった」
と、歳三は酒代さかてをはずんでやった。
浪華なにわの辻つじ駕籠、というのは便利なもので、
──どこぞ、ゆっくり話のできる家はないか。
とそう言っただけで、相手の男女の行体ぎょうていを見、ふところ具合まで察し、ちゃんとそれにふさわしい場所に連れて行ってくれ、その家との交渉までしてくれるのである。
「お雪どの、どうぞ」
「はい」
お雪は、下をむいて歩きだした。小径に木の根が這はっている。
西昭庵では、西側の部屋へ通された。
(いい部屋だな)
歳三は坐った。
伏見方面での戦ささわぎで、こういう家も客がないらしく、屋内は静かだった。
酒肴しゅこうが運ばれてきたころ、明り障子に西陽にしびがあたった。
その落日とともに、遠近おちこちの寺々から木魚もくぎょの音が聞え、その刻限に誦ずする日没偈にちもつげの声がかすかに室内までとどいた。
「静かでございますね」
とお雪が言った。
「静かだな」
「遠い山中さんちゅうかなにかで暮らしているような気がしますわ」
お雪が立ち上がって、明り障子のそばにひざをつき、歳三のほうを向いて、
(あけて、いい?)
といった眼をしてみせた。その表情がひどく可愛かった。
「いいですよ。すこし寒いかもしれないが」
「お庭を見たいのです」
からっとあけた。
「まあ」
庭はないといっていい。苔こけと踏み石と籬まがきだけのせまい庭が、籬のむこうで断崖だんがいになって落ちている。
はるか眼の下に、浪華の町がひろがっていた。
そのむこうは、海。
北摂ほくせつ、兵庫の山々が見える。陽がたったいま赤い雲を残して落ちて行こうとしている。
「大変な夕陽ですな」
と歳三も立ち上がった。
「だからこのあたりを夕陽ヶ丘というのでしょうか」
お雪は歌学にあかるい。
この地名と夕陽を見てあらためて思い出したらしく、
「そうそう、此処ここは」
とつぶやいた。王朝の昔、藤原家隆いえたかという歌人があり、新古今集しんこきんしゅうを撰したことで不朽の名になったが、晩年、この難波なにわの夕陽ヶ丘に庵いおりをむすび、毎日、日想観にっそうかんという落日をながめる修行をして日をすごした。
ちぎりあれば 難波の里に宿りきて
波の入り日を 拝みつるかな
「あの夕陽ヶ丘でございますね」
「そういえば、ななんだかそのあたりに塚がある、という話を、さきほど内儀おかみが話していたようだ」
歳三は庭下駄げたをはいて、苔を踏んだ。お雪もついて来た。
庭から西へまわると、柴折戸しおりどがある。あけて入ると、樟くすの老樹が木下闇このしたやみをつくっており、そのそばの草が小高い。
五輪塔があった。そのそばに碑があり、
「家隆塚かりゅうづか」
と読めた。
「私は無学で何もい知らないが、家隆とはどういう人です」
「大昔の歌よみで、よほどここから見える夕陽が好きだったのでございなしょう。夕陽ばかりを見ていた、としか存じません」
「華やかなことを好きな人のようだな」
「夕陽が華やか?」
お雪は、歳三が変わっている、と思った。
第一、家隆卿きょうは、この地で、大阪湾ちぬのうみに落ちて行く夕陽の荘厳さを見て、弥陀あみだの本願が実在することを信ずるようになり、その辞世の歌にも、「難波の海雲居になして眺ながむれば遠くも見えず弥陀の御国みくには」と詠よんだ。その歌からみても、この岡の夕景が好きだった家隆は、落日がはなやかだとは思わなかったであろう。
「華やかでしょうか」
「ですよ」
歳三は言った。
「この世で、もっとも華やかなものでしょう。もし華やかでなければ、華やかたらしむべきものだ」
歳三は別のことを言っているらしい。
「あ」
とお雪が声をあげたのは、塚をおりようとして足をすべらせたときだった。もう、日は暮れてしまっている。
「あぶない」
と、歳三はすばやくp雪の右わきをすくいあげて、ささえてやった。
自然、ひどく自然ななりゆきで、お雪は歳三にもたれかかる姿勢になった。歳三は、お雪を抱いた。
「この唇くちびるを」
と歳三は、お雪のあごに手をあてて、そっと顔をあげさせた。
「吸いますよ」
(馬鹿だなあ)
とお雪は思うのだ。
わざわざことわる馬鹿がどこにいるだろう。
歳三は、お雪の唇がひどくあまいことを知った。
「なにを口に入れているのです」
「いいえなにも」
「すると、お雪さんの唇は自然じねんにあまいのですか」
歳三は、むきになって訊きいた。暗くて表情はわからないが、少年のような声音こわねを出していた。
お雪は、内心おどろいている。新選組の土方歳三といえば、天下のたれもが、こういう時にこういう声音を出す男だとは知らないであろう。
「土方様は、女にはご堪能たんのうなのでございましょう?」
「昔はそのつもりだった。しかしお雪どのを知ってから、自分が今まで女について知っていたことは錯覚だったような気がしている」
「お上手じょうず」
「は、言っていない」
不愛想な声にもどっている。
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