~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
西さい しょう あん (四)
ひと夜は、すぐ明けた。
歳三が眼を覚ました時は、すでにお雪の床がたたまれ、姿がなかった。
歳三はいそいで床をあげ、井戸端へおりた。
(きょうも、みごとな晴だな)
やがて、お雪が膳部ぜんぶをととのえて運んで来た。お雪らしい、と歳三は思った。
台所を借りて、自分で作って来たのだろう。
お雪はたすきをはずし、自然な折り目で指をついた。
「おはようございます」
「抜けている」
「なにが、でございますか」
「呼び言葉が。──」
「ああ」
と、お雪は赤くなった。
「だんなさま」
「うん」
(馬鹿にしている)
という表情で、お雪は微笑した眼を、大きくした。
(世の亭主というものも、こういうものかな)
そんな顔で、歳三はきちんとひざをくずさずにすわっていた。
(幕府のことも新選組のことも、今日一日は忘れて暮らすのだ)
「どうぞ」
と、お雪は盆をさしだした。
歳三はあわてて右手で飯茶碗めしぢゃわんをとりあげた。
はしがない」
「左手に持っていらっしゃいます」
「なるほど」
歳三は、左右、持ちかえた。世の亭主も、ときどきこういうしくじりをするものであろう。
「お雪」
「はい?」
「一緒に食べよう。私は大勢の兄妹きょうだいおいたちの中で育ったから、めしは一緒に食べないとまずい」
「ご兄妹ならそうでございましょう。でもわたくしどもは夫婦でございますから」
「ああ、そうか」
亭主に、歳三はれていない。
2024/04/22
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