幕府軍艦富士丸が、歳三ら新選組生き残り四十四名を乗せて大坂天保山沖を出たのは、正月十二日であった。
抜錨したのは、西昭庵でお雪が最初の下絵にとりかかったころであったろう。
艦が、第一日、紀淡海峡にさしかかったとき、戦傷者のひとりである山崎烝すすむが息をひきとった。大坂浪人である。
新選組結成直後の第一次募集に応じて入隊した人物で、隊ではずっと監察をつよめ池田田ノ変では薬屋に変装して一階にとまりこみ、放胆な諜報ちょうほう活動をした男である。
淀堤の千本松で、薩軍陣地に斬り込むとき身に三弾をくらってもなお生きつづけてきたほどの気丈な男だが、乗船の頃から化膿かのうがひどくなり、高熱のなかで死んだ。
「死んだか」
歳三は、にぎっている山崎の手が急に冷たくなったことで、もう眼の前にいるのが山崎でなくなったことを知った。
葬儀は、洋式海軍の習慣による水葬をもってsられた。
山崎の遺骸いがいを布でぐるぐる巻きにし、錨いかりをつけ、国旗日の丸(嘉永六年ペリー来航以来、幕府はこれを日本の総旗じるしとしていた。鳥羽伏見の戦いでも幕軍は日章旗をかかげ、幕府海軍も軍艦旗に日章旗をもちていた。これを国旗として維新政府があらためて継承したのは明治三年一月である)をその上にかけ、甲板には、艦長以下の乗組士官、執銃兵がと堵列とれつりした。
「そうか、海軍が山崎の葬儀をしてくれるのか」
と、士官室で病臥びょうがしたきりだった近藤も、紋服、仙台平をつけて、甲板上に出て来た。
顔が青い。
体を動かすとまだ肩の骨が痛むようであった。
近藤と同室で寝ている沖田総司も、もうふとりで歩きにくいほど衰弱していたが、
「土方さん、私も出ますよ」
と、寝台をおりた。とめたが、この若者は笑っているだけで、羽織、袴はかまをつけ、刀を杖つえにつき、手すりにつかまり、階段をのぼろうとした。
歳三が、右腕をかかえてやろうとすると、
「いやですよ」
とことわった。新選組の沖田総司が、衰弱しきってひとの肩を借りて歩行した、などと言われるのは、この見栄坊の総司には堪えられないんぽであろう
「医者が臥ねてろ、というからいいつけどおりにしているんだけど、私はほんとうは元気なんですよ」
「そうかね」
歳三は、この若者の笑顔が、透き通るような美しさになってきているのを、おさおろしいものでも見るようにして見た。
「軍艦ふねの階段は、急だなあ」
あえぎをごまかそうとして、そんなことを言った。
無理である。呼吸いきをするには、沖田の肺はなかばその機能を失いはじめていた。
新選組四十三人のうち、動けぬ重傷者三人をのぞいて、全員が甲板にならんだ。近藤はむろんのこと、そのほとんどが、大なり小なり負傷をしていた。
「土方さんぐらいのものだなあ、無傷で突っ立っているのは」
と、沖田が、くすくす笑った。
「ものをいうと疲れるぞ」
「疲れませんよ。感心しているんです。見渡してみると、どうみても土方さんだけが鬼のように達者だ」
「静かにしろ」
やがて、銃隊うぃ指揮している海軍士官が剣を抜いた。
号令をかけた。
だだだだ、だあーん、と弔銃が紀淡海峡にひびきわたり、監察・副長助勤山崎烝の遺骸は、舷側げんそくから海へすべり込んだ。
その間、喇叭が吹奏されている。 |