葬儀が終わってから、近藤は、海軍のこの葬儀がよほど嬉しかったらしく、艦長肥田浜五郎(機関にあかるく、維新後新政府に乞こわれて仕え、海軍少将にあたる海軍機関総監などに任じ、明治二十二年四月二十七日、公用で出張中、静岡県の藤枝駅でホームから顚落てんらく
し、おりから入って来た汽車にひかれて死んだ)をつかまえて、
「かたじけない、かたじけない」
と、何度も礼を言った。近藤も一軍の将でありながら、傷で憔悴しょうすいしているせいか、肥田艦長に腰をかがめている姿が、田舎の老夫のよにみえた。
士官室に引取ってからも、
「歳、新選組も結党以来、何人死んだか数えきれねえほどだが、山崎のようなああいう葬礼をしてもらったやつはいない。よく働いたやつだが、死ん恵まれもした」
さかんに感心した。
「近藤さん、葬礼なんぞに感心するもんじゃねええよ。志士ハ溝壑こうがくニアルヲ忘レズ、勇士ハソノ元くびヲ喪うしなフヲ忘レズ、という言葉がある。自分の死体を溝みぞに捨てられ、首が敵手に渡るという運命になることを忘れぬということだ。男というものは、葬とむらわれざる死を遂げるというものだ、とおれは思っている」
「歳、おまえはつむじまがりでいけねえよ。山崎は勇士であってしかも葬われた。それをおれは喜んでいる」
が、近藤、土方、沖田は、その最期さいごにおいて、葬われるかどうか。
艦は、汽罐かまをいっぱいにたいて、太平洋岸をつたいつつ、東航した。
富士丸は、木造、三本マスト、千トンの大艦である。
艦載砲十二門。
百八十馬力。
幕府が米国へ発注して慶応元年に受取ったもので、長州征伐のとき下関砲撃にも参加した歴戦の艦である。
が、千トンの木造船といえばよほど大きいはずだが、この一隻せきに千人をこえる幕軍が乗ったために、艦内生活の苦しさは言語に絶した。
食事も艦の厨房ちゅうぼうだけでは調理いきれず、甲板にいくつもの大釜おおがまを持ち出して飯を炊き、汁を煮、そのまわりはびっしりと人で詰まり、それも横臥おうが出来るゆとりがなく、みな膝ひざを抱えてわずかに安らいでいる。
正月の海は風浪が荒く、ほとんどが船酔いで病人同然になり、与えられた食事を残さずに食えるという者が少ない。
米も、悪い。大坂で積み込んだ米は、大阪城に貯蔵されていた古米は多く、炊き上げると悪臭を放った。
近藤も、江戸の頃は食い物をどうこういうような性格でも暮しでもなかったが、京に来て美食に馴なれたため、
「歳、これァ、食えねえな」
と閉口した。
歳三は、ほとんど食わなかった。まずいもの食うぐらいなら、死んだほうがましだと思っている。
ただ、沖田総司がひと粒も口にしないのには、近藤も歳三も弱った。
「総司、食うんだよ」
と叱しかってみたが、力弱く笑っている。食わなければ病気にわるいことはきまっているのだ。近藤はどなるように言った。
「総司、武士が戦場の兵糧ひょうろうのまずいうまいを言うべきものではないんだ」
「どうも、酔って」
総司は、真青まっさおな顔だった。
「無理に食べても、吐くんです。吐くと力が要って、どうもあとがわるいんです」
歳三、平隊士のなかで妙に船に強い野村利三郎を選び、沖田の看病をさせた。
野村は気のつく男で、厨房で魚の煮汁とかゆ・・を作らせ、沖田に飲ませた。それだけがやっと咽を通った。
海上四日。
十五日未明に品川沖にさしかかったとき、歳三は甲板に出て、舷側から吐瀉としゃしていたがふと陸地の灯を見、
「あれはどこだ」
と、水夫に聞いた。
「品川宿しながわじゅくでございます」
水夫は、伊予いよ塩飽しあくなまりで答えた。
(品川なら、これは降りた方がいい)
と、艦長の肥田浜五郎にかけあうと、浜五郎はあっさり承知し、笑うながら早口でなにか言った。歳三があとで思い出すと、どうやら、
「新選組も、船酔いには勝てぬとみえますな」
と言ったらしい。
未明、投錨し、三隻せきの短艇がおろされ、新選組四十三名だけが、上陸することにした。
品川では、
「釜屋かまや」
という旅籠はたごに泊まり、近藤と沖田だけは投宿せず、浜からそのまま漁船を雇い、一足先に江戸に入り、神田和泉橋にある幕府の医学所で治療をうけることになった。
歳三は釜屋の入口に、
「新選組宿」
と、関札を出させた。この品川釜屋が、京大坂を離れた新選組の最初の陣所というべきであったおる。
「諸君、戦はこれからだ。数日逗留とうりゅうするから、船酔いの衰えを回復することだ」
と云い含め、自分は海の見える奥に一室をとり、掻巻かいまき一枚をひっかぶって、ごろりと横になった。
(いまごろ、お雪はどうしているか)
奇妙なことに、お雪がまだあの西昭庵にいるような気がしてならない。
おそらく、あの別れの日、お雪が、わが家から送り出すようにして、式台にひっそりと坐っていたからだろう。
夕刻まで、ぐっすりと眠った。
起きた。
そのころ、お雪は西昭庵のあの部屋で絵絹をのべながら、たったいま北摂の山に沈んでゆく陽の赤さを、どの色でうつしとるべきか、ぼんやり思案していた。
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