~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
北 征 (一)
歳三ら、新選組は、関東に戻った。自然筆者も、ここから稿をあらためて、
「北征編」
とする。
おそらく土方歳三の 生涯 しょうがい にとっもっともその本領を発揮したのは、この時期であったろう。
歴史は、幕末という 沸騰 ふとう 点に於いて、近藤勇、土方歳三という奇妙な人物を生んだが、かれrが、歴史にどういう寄与をしたか、私にはわからない。
ただ、はげしく時流に抵抗した。
すでに鳥羽伏見の戦い以降、それまで中立的態度をとっていた天下の諸侯は、あらそって薩長を代表とする「時流」に乗ろうと、ほとんどが「官軍」となった。
紀州、尾州、水戸の御三家はおろか、親藩、さらに譜代筆頭の井伊家さえ、官軍になった。
徳川討滅に参加した。
と書けば、時流に乗ったこれら諸藩がいかにも功利的にみえるし、こっけいでもあるが、ひとつには、京都朝廷を中心とする統一国家の樹立の必要が、たれの眼にもわかるようになっちたのだる。
彼らは、
「日本」
に参加した。戦国割拠以来、諸藩が、はじめて国家意識をもったことになる。
しかし、「日本」ではなく、薩長にすぎぬという一群が、これに抵抗した。
抵抗することによって、自分たちの、
俠気きょうき
をあらわそうとした。
といえば図式的になってかえって真実感がなくなる。
まあ、小説に書くしか仕様がないか。

いったん品川に駐屯ちゅうとんした新選組が、江戸丸之内の大名小路にある鳥居丹後守の役宅にはいったのは、その正月の二十日である。
隊士は四十三名。ただしそのうちの負傷者は、横浜の外人経営病院に収容されていた。
生き残りの幹部は、永倉新八、原田左之助、斎藤一といった結党以来の三人のほかに、隊中きっての教養人といわれた尾形俊太郎、人斬ひときりの名人といわれた大石鍬次郎くわじろうなど。
沖田総司は療養中。
近藤のほうの傷は、江戸に帰ってからめきめきよくなり、城へも駕籠かごで登城出来るまでになった。
「歳、やはりやはろ江戸の水にあうんだよ」
「いいことだ」
と言っているうちに、千代田城中で奇妙な人物に出逢であった。
格は芙蓉ふよう詰めで、家禄かろく四千石、それに役高、役知を加えて一万石という大身の旗本である。
甲府勤番支配佐藤駿河守するがのかみであった。
奇妙なのは、その人柄ひとがらではない。小声で近藤に耳打ちした内容である。
「近藤殿、内密で話があるのだが」
と、言った。
実を言うと、幕府瓦解がかい(ただし徳川家とその城池、直轄ちょっかつ領は残っている)とともに佐藤は、甲府勤番支配としての今後の処し方を閣老に相談するために江戸にもどっていたのである。
ところが、老中連中はそれどころではなく、ろくに佐藤の相談に乗ってくれず、
「よきように、よきように」
と言うばかりであった。
佐藤は困った。
甲府は、百万石。
戦国の武田家の遺領で、その後は徳川家の私領(天領)になっている。佐藤駿河守は、その百万石を管理する「知事」なのだ。
「今、東山道を、土佐の板垣退助が大軍を率いて東下している。この東山道軍の主たる目的は、甲府百万石を官軍の手におさえることですよ」
「ふむ」
わかることだ。朝廷軍といっても諸藩寄り合い所帯で、京都政府には領地というものがない。
幕府領をおさえるほかなかった。
「なるほど、甲府か」
「おのままでは、官軍にられるばかりですよ」
甲府城には、江戸からの勤番侍が二百人いるのだが、ほとんど江戸へ引き揚げているし、あとは、幕府職制上非戦闘員ともいうべき与力職が二十騎、ほかに同心が百人いるきりで、どちらも地役人だから、戦には参加すまい。
「空き城同然です」
「ほう」
近藤は、思案の時の癖で、腕組みをして聞いている。
「それで、私に甲府城をどうせよと申されるのか」
新選組の手で奪え、と佐藤駿河守はいうのである。
(おもしろい)
と、近藤は、佐藤ともども老中の詰めの間へ行った。
「よかろう」
と老中河津伊豆守祐邦すけくにが言った。
実のところ、徳川家は大政奉還をしたが、まだ徳川領四百万石、旗本領をふくめて七百万石は失っていない。
新政府は、領地をも返上せよ、と迫り、その押問答が鳥羽伏見における開戦の一原因になった。
徳川家の拒否は、理屈としては当然なことで、政権を奉還して一大名になった以上、他の大名が一坪の土地も返上していないのに、徳川家だけが返上せねばならぬ理由はない。
第一、返上してしまえば、旗本八万騎は路頭に迷うではないか。
一方、新政府が諸道に「官軍」を派遣して徳川慶喜討滅の戦いをはじめたのは、さしせまっては、
「土地」
の奪取が現実的目的であった。
ところが。
かんじんの徳川慶喜は、あくまで謹慎恭順して、ついには江戸城を出、上野寛永寺の大慈院に移ってしまっている。
徳川領を軍事的に防衛するはらはない。
(だから、甲府百万石は宙に浮いてる。官軍はそれを拾いに来るだけだ。されば官軍が来る前に押さえてしまえば、こっちのものではないか)
と近藤は、考えた。
老中の意見も同様である。
「新選組の手で、押さえられますか」
と、河津伊豆守が言った。
「出来ます」
「それなら、押さえてもらいたい。軍資金、銃器などは、出来るだけ都合をする」
この時、老中の河津か、同服部筑前守かが、冗談で言ったらいい。
「甲州を確保してもらえるなら、新選組に五十万石は分けよう」
分けるにあたいするほどの大仕事だ、という意味なのか、それともまるっきりの冗談だったのか、いずれにしても近藤の耳には、
「分けてやる」
と聞こえた。
云った連中も、たかが知れている。幕府瓦解後の老中というものは、すでに政府の大臣ではなく、徳川家の執事にすぎない。身分も、かつては譜代大名から選ばれたものだが、今では旗本から選ばれ、それもそろって無能で、いやたとえ能吏でもこの徳川家をどうさばいてよいか方途もつかぬ事態になりはてている。
いわば、どさくさなのだ。
(五十万石。──)
近藤は、正気を失わんばかりに喜んだ。

2024/04/26
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