「歳、五十万石だとよ」
と、近藤は、大名小路の新選組屯所に戻って来るなり、声をひそめて言った。
「それより、傷はどうだ」
「傷まねえ」
傷どころではなかった。
「歳、さそく一軍を作って甲州城へ押し出すんだ」
近藤は、京都時代の末期には、諸藩の周旋方と交遊したり、土佐の後藤象二郎などに影響されて、いっぱしの国士に化りかけていたが、やはり地金が出た。
近藤も相応な時勢論を持っていたのだが、甲府五十万石のつかみ取りの案の一件が、わが近藤勇をして三百年前の戦国武者に変えてしまった。彼のとって、この戊辰ぼしん戦乱は、戦国時代のように思えて来た。
「近藤さん、正気かね」
と歳三は顔をのぞき込んだ。
「私は京都の頃。あんたが公武合体論などをとなえて、── 勤王はあくまで勤王、しかれども政治は江戸幕府が朝廷の委任によって担当する、などという理屈をさかんに諸藩の周旋役に吹きまわっていたのを、私は柄がらにもねえと思って忠告したことがあるが、今度は風向きが変わったようだ」
「歳、時勢が変わった。お前にゃわからねえことだ」
「時勢がねえ」
と言ったが、喧嘩屋けんかやの歳三には、甲州に進撃して百万石をおさえるという大喧嘩は、近藤とは別の意味で、たまらなく魅力でもあった。
(今度は洋式でやってやる)
懐中には、例の「歩兵心得」がある。
「歳、すぐ募兵しろ」
「そうしよう」
と、歳三はそのことに奔走することになった。
近藤も、毎日登城し、老中に会っては出来るだけ大軍を編成するよに交渉した。
大軍を募集するには、まず指揮官の身分が必要であった。
幕閣では、近藤を「若年寄」格とし、歳三には「寄合席」格を与え、謹慎中の慶喜の裁可を得た。
「大名だよ」
と、近藤は言った。
その通りであった。若年寄といえば、十万石以下の譜代大名である。歳三の寄合席というのも、三千石以上の大旗本であった。
しかし幕府はすでに消滅している。徳川家としては、この二人にどういう格式を濫発らんぱつしても惜しくはなかったのであろう。
老中たちは、
「おだてておけば役に立つ」
と、思ったに違いない。近藤はたしかに時勢に乗っておだれられさえすれば、器量以上の大仕事の出来る男であった。
近藤は、毎日の登城にも、長棒引戸ながぼうひきどの大名駕籠に乗って行くようになった。
一方、歳三は、洋式軍服を着た。
「歳、なんだ、寄合席格というのに、紙クズ拾いみてえな恰好をしやがって」
と、近藤が眉をひそめた。
「戦にはこれが一番さ」
鳥羽伏見の戦場で、薩長側の軽快な動作を見て、うらやましかったのだ。
軍服は、幕府の陸軍所から手に入れたラシャ生地、フランス陸軍式の士官服である。
募兵は容易に進まなかった。
ところが、近藤、沖田の治療をしている徳川家典医頭松本良順が、
「浅草弾左衛門を動かせば?」
と、近藤と歳三に言った。 |