~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
甲 州 進 撃 (一)
近藤、歳三の正面の敵になった「官軍」東山道方面軍は、洋式装備の土佐、薩摩、長州の諸藩兵を主力とし、これに旧装備の因州兵などが加わり、参謀(指揮官)は、土佐藩士いぬい退助(板垣、のち伯爵はくしゃく)である。
二月十三日、出陣の土佐藩兵は、京都藩邸で酒を頂戴ちょうだいし、老公山内容堂から、
「天なお寒し、自愛せよ」
という有名な言葉を賜った。「二月とはいえ、野戦は寒い。風邪をひくな」という意味だ。これを聞いて「一軍、皆な踴躍ようやくす」と、鯨海酔侯げいかいすいこうという書物にある。
翌十四日早暁そうぎょう、京都御所を拝み、砲車を率いて京を出発。
三日目に大垣に入り、総指揮官乾退助は、ここで姓名を板垣退助にあらためている。
じつは出発にあたって、岩倉具視ともみが、
「甲州の人間というのは気が荒っぽくて天下に有名だ。ただ、武田信玄の遺風を慕う気持がつよい。そこを考えて民情を安んぜよ」
と言った。
偶然なことだが、退助の乾家には、その先祖は信玄の麾下きかの名将板垣駿河守するがのかみ信形の血をひく、という家系伝説がある。
だから陣中ながら板垣とあらため、甲州へ間諜かんちょうをはなって、
「今度の官軍の大将は、土佐人ながら遠くは甲州の出身である。しかも信玄の猛将板垣駿河守の子孫でり、信玄公をうやまうこと神を見るがごとくである」
流布るふせしめた。
この奇妙な宣伝が甲州人のあたえた影響は大きく、最初は徳川びいきであった者が、にわかに「天朝」びいきになった。
官軍の総隊がいよいよ甲州の隣国信州に入り、上諏訪かみすわ、下諏訪に着陣したのは、三月一日のことである。

この同じ日に、近藤、歳三ら新選組を主軸とする「甲陽鎮撫隊」二百人が、江戸四谷の大木戸を、甲州に向かって出発した。
第一日の行軍は、わずか三キロ。
歩いたと思えば、はや、
「新宿の遊女屋泊り」
という行軍であった。新宿の遊女屋を全部 隊で借り切った。
「歳、にがい顔するもんじゃねえ」
と、近藤は言った。
「これも戦法だ」
近藤のいうとおりである。二十数人の新選組隊士をのぞいては、みな、刀の差し方も知らぬ浅草弾左衛門の子分どもで、これをにわかにいくばくにかり出すには、それなりの手練手管がった。
「まあ、見ておれ、一ツ屋根の下で女を抱くと、あくる日は、一年も一ツかまの飯を食ったようにびしっと二百人の呼吸があうものだ」
歳三だけは、高松喜六という宿でとまり、女を近付けなかった。
隊士が気をつかったが、近藤は、捨てておけ、と言った。
「あいつは年若のころからねこのようなやつで、ひと前では色事をしない」

2024/04/27
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