翌朝、出発。
近藤は長棒引戸の駕籠に大名然と乗り、歳三は洋服、陣羽織姿で馬上、先頭を行く。
斎藤、 原田、尾形、永倉ら幹部は、旗本のかぶる青だたき裏金輪抜けの陣笠じんんがさに陣羽織、平隊士は、綿入れの筒袖つつそでに撃剣の胴をつけ、白もめんの帯をぐるぐる巻きにして大小をさし、下はズボンにわらじばきである。
新募集の連中は、幕府歩兵の服装で、柳行李やなぎごうりの背嚢はいのうを背負い、ミニエー銃をかついでいた。
服装から見ても、雑軍である。
この戦闘部隊の中で、近藤の大名駕籠がいかにも珍無類で、異彩を放った。
歳三が、
「戦さにゆくのだよ。その駕籠はよせ」
と言ったが、近藤はきかない。
「歳よ、お前は学がねえから知るまいが、唐からの故事に、出世して故郷に帰らぬは夜錦よるにしきを着て歩くようなものだ、ということがある」
と言った。
途中、近藤や歳三の故郷南多摩地方を通るのである。
「大名になったのだ」
というところを、近藤は故郷の人々に見せたかったのであろう。
滑稽こっけいといえばこっけいだが、近藤にそういう男くさいところが多分にあった。男くさいというのは子供っぽいということと同義語である。子供のように権勢にあこがれ、それを得ると無邪気に喜ぶし、図に乗って無我夢中の行動を発揮す。
(やはり戦国の豪傑だ)
と、歳三は思わざるを得ない。
行軍第二日目は、府中に泊まった。この府中で、故郷の連中が押しかけて来て、大変な酒宴さわぎになった。
第三日目の昼、日野宿にしかかった。
「歳、日野だぜ」
と、近藤は引戸をあけて、懐なつかかしそうに叫んだ。
(日野だな)
歳三も、感無量である。
ここの名主佐藤彦五郎は、歳三の姉の婚家で、同時に天然理心流の保護者であり、新選組結成当時、金銭的にもずいぶん応援もしてくれ。いわば、新選組発祥の地といっていい。
「歳、今日は、日野泊りにしようk」
と、近藤は宿場の入口にさしかかったとき相好をくずして言った。
「まだ、昼だよ」
歳三は苦笑した。
甲州街道沿い日野宿のまんなかたたりに、佐藤彦五郎の屋敷があ。なにしろ、日野本郷三千石の管理者だから、屋敷は宏壮こうそうなものだ。
その孫佐藤仁翁が書き残して現在同家に蔵せられている「籬蔭りいん史話」という草稿には、
「隊員一同、表庭や門前街路に休息した」
とある。以下、その文章をひこう。
|