~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
甲 州 進 撃 (四)
母衣は、当家に残しておく、と言った。
「こんな拝領のお品を」
とおのぶは迷惑がったが、
「なあに、子供の振袖でも仕立てればいいでしょう。いいんだ」
と、ぐるぐるとまるめて押しやった。
歳三が姉と別室にいるとき、にわかに台所の方騒がしくなった。隊士が対応に出てみる、この日野宿界隈かいわいの血気の連中が、きっかり六十人、土間に土下座している。そのうちの代表が平伏して、
「ぜひとも、近藤先生に拝謁はいえつしとうござりまする」
と言った。その代表のいうところでは、拝謁・・してお言葉を頂戴したいし、出来れば人数に加えてもらいたい、と言うのである。
「ああ、いいよ」
と、近藤は奥の間で、盃をおいた。顔が、自然と笑ってしまっている。近藤の生涯しょうがいでもっとも得意な瞬間であったろう。
六十人の若者たちは、いずれも郷党の後輩たちであったが、みな天然理心流をかじっていて、その宗家の近藤からみれば、互に面識はなくても「子弟」であった。
「では」
と、近藤は酒席をたちあがった。
羽織は、黒羽二重ころはぶたえ
しかもあおいの五つ紋のついた将軍家拝領のものである。が背後に太刀持ちの小姓がついている。大名然としたものである。(ちなみに、この太刀持ちの小姓は、井上泰助といい、当時十三歳。結党以来の同志だったこの地方出身の井上源三郎のおいである。井上源三郎は既述のように伏見奉行所の戦闘で戦死。泰助はそれ以前に京に近藤の小姓としてのぼっていたが、このあと、佐藤家に残された。のち、泰助の妹が沖田総司の甥芳次郎に嫁ぎ、その沖田家の家系が立川に残っている)。やがてふすまがひらき、近藤がゆったりと出て来た。
一同、土間に平伏した。
近藤、表座敷の中央に坐り、
「諸君、ご健勝でなによりです」
と、微笑した。
異様な感動、土間にうずまいた。
泣くようにして、従軍を願い出た。
「いやいや、それは許されぬ」
と、近藤は、笑顔のまま言った。極力、その申し出を断わった。近藤としては、これ以、郷党の血を流すのに忍びなかったのであろう。
このあた、近藤の正気は残っている。
が、この連中がたって泣訴したため、独身次男以下者十三人を選び、「春日かすが隊」と名づけて同行することにした。
「時も移、早く出発しよう」
と歳三が急き立てたが、近藤はなお、土間の連中に京での手柄てがら話を物語っ、腰をあげない。
歳三は、性分なのであろう、郷党の連中に微笑さえ与えなかった。このため後年までこの地方に、
── 土方という人は権式ばったいやな人であった。
という口碑が残っている。
この日、慶応四年(明治元年)三月三日で、関東、甲信越地方は、春にはめずらしく雪が降った。
「歳、雪だよ」
近藤はこのまま、日野宿で腰をすえたいつもりらしかった。

この同じ日、板垣退助以下の官軍三千は、全軍諏訪の宿営地を進発し、甲府に向って雪中行軍を開始した。
主力の土佐兵は南国育ちだけに、寒気に弱く、銃把じゅうはをにぎれぬほどに手をこごえさせて、行軍した。
馬上の板垣退助は、諸隊に伝令を出し、
「天なお寒、自愛せよ」
との藩の老公の言葉を唱えさせた。風邪をひくな、というほどの意味だ、唱えているうちに、彼らの胸に譜代の士卒独特の感情が湧いて来て、士気とみにふるった。
2024/04/29
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