歳三はただ一騎、山路を縫い、谷川を駈けわちゃり、村々を疾風のように駆け抜けて、神奈川の菜葉隊本営へ向って走った。
「援軍依頼」
これ以外に、甲州で勝つ手はない。
(それまで近藤が、もちこたえてくれるかどうか)
いや、近藤ならやるだろう。当代、戦をやれば、自分と近藤ほど強い者はないという信念が、歳三のどこかにある。京における新選組の歴史がそれを証明するであろう。
夜が更け、やがて朝が」ちかづいた。
歳三は必死に駈けた。
さいわい、雪中である。視界はしらじらとして、燈火がなくともさほどの不自由さはなかった。
小仏峠を」越えた時、あたりがぱっと白んだ。陽が昇った。
その刻限、駒飼の名主屋敷を本陣として一泊した近藤は、ゆうゆうと朝の陽も中に出た。
庭を散歩しはじめた。
宿を貸している名主は、
(大久保大和などというお旗本は武鑑にも出ていないが、さすが一党の大将だな)
と感嘆したという。
近藤は屋敷うちをひとまわり廻ってから隊士十人を集め、それぞれに同文の書きつけを渡し、
「近郷の村々に行っていそぎ兵をつのるように」
と、出発させた。
書きつけには、近藤の自筆で、
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徳川家御為に尽力致し候輩やからは、御挽回ごばんかいの後、恩賞可到者也いたすべきものなり
大久保大和昌宣まさよし |
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とある。
近藤は徳川家の御挽回・・・を信じていたし、甲州百万石の夢も捨てていなかった。
甲州の農村にも、近藤同様、夢のある血気者が多いとみえて、夕暮までにみるからに屈強な連中が、二十人ほど集まて来た。
その中で、いかにも眼つきの油断ならぬ若者がいて、他の甲州者はひどくこの男に遠慮をしている。
「君は何者かね」
と、近藤はすぐ眼をつけた。
「雨宮あめのみや敬次朗」
ふてぶてしく答える。
「苗字みょうじを許されているのか」
「いかにも」
甲州東山梨郡の小さな庄屋の息子である。
近藤は、さらにたずねた。
「ご紋を見るに、マルに上の字とは見なれぬ御家紋だが、なにか由緒ゆいしょがおありなのか」
「武田信玄の武将、雨宮山城守正重を家祖とし、武田家滅亡後は野に隠れて三百年、里正りせい(名主・庄屋)をつとめます。いま天下争乱に際遇し、ぜひ功名をたてて家を興し先祖の武名をあげたいと存ずる」
ひどい甲州訛である。
「それはご殊勝な」
と、近藤もかたちをあらためた。自分もだんだん戦国の武将のような気持になってきたらしい。
「われら甲陽鎮撫隊は前将軍(慶喜)から甲州百万石の沙汰さたをまかされている。西軍を追ってみごと斬りとらば、働きに応じ、十分の恩賞を頂戴ちょうだいできます」
「ありがたいことです」
「貴下を甲州組の組頭にしたいが、ほかのかたがた、ご異存はござらんな」
「ありませぬ」
口々にとなえた。
この雨宮敬次朗、この時は正気で甲州ぶんどりを考えていたらしい。
この後変転し、明治十三年、今後はパンの需要が高まるに相違ないとみて、東京深川に小麦製粉所を作って大儲をし、その後各種の投機事業に首を突っ込んで、そのほとんどに成功した。もっとも、東京市水道鉄管事件という疑獄で投獄されたが、出獄後、市電の敷設ふせつに走りまわったり、川越鉄道、甲武鉄道、北海道炭鉱などに関係して巨富を得た。明治四十四年、死去。
「さて雨宮君、早速だが」
と、地図の上の勝沼をさした。
「ここに貴隊をもって、関所を作ってもらいたい」
勝沼は、この駒飼の山中から甲府盆地におりたところにある宿場で、三里足らず。
近藤は、ここを防衛の最前線とし、歳三の援軍の到着しだい、勝沼から五里むこうの甲府城に押し出そうと考えていた。
雨宮らは、荷車に柵さくを作る材木を積み上げ、近藤からもらったミニエー銃をかつぎ、威風堂々と山をおりていった。
「ちえっ」
原田左之助は、そのあまりにも堂々とした雨宮の後姿に舌打ちをした。
「火事場泥棒どろぼうくめ」と言いたかったところだろう
さらに近藤は、本営をわずかに前進させることとし、柏尾かしお(今の勝沼町に含まれる)を要害と見て、ここに野戦築城をすることにした。
柏尾は、もう眼の下に甲府盆地を見おろす街道沿いの山村で、たしかに要害といっていい。
陣地は、村の東の丘陵(柏尾山)に設け、神願沢じんがわざわの水を堀に見たて、街道の橋を切り落とした。
さらに丘陵に砲二門をひっぱりあげて眼下の街道をななめ射ち出来るようにし、街道のあちこちに鹿砦ろくさいを植え込んだ。 |
2024/05/01 |
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