一方、甲府城に入った官軍指揮官板垣退助のもとに、ひんぴんと情報が入っている。
「柏尾に、しきりと東軍が出没している」
というのである。
「例の大久保大和という人物だな」
この名は、武鑑で調べ、甲州開城のときに旧幕士にも聞いたが、ついに正体が知れないままである。
板垣退助ら土佐人は、新選組を憎むこともっともはなはだしい。もし近藤とわかればただではおかない下地がある。なぜなら、新選組が京で斬った人数を藩別にすれば、長州人よりもむしろ土佐人が多かった。薩摩人への加害は皆無だったが。
板垣は、一情報では、敵将の名が、
「近藤勇平」
であるとも聞いている。事実、近藤は、ふた通りの変名をつかったのだが、この時も、まさか近藤勇であるとは思わなかった。
とにかく、板垣は、土佐藩よりすぐりの指揮官五人を選び、進発させた。
谷守部
片岡健吉(のちの自由民権運動家・衆議院議長)
小笠原謙吉
長谷重喜
北村長兵衛
谷守部は、鳥羽伏見いらい官軍が遭遇する最初の敵とあって用心深い態度をとり、しきりと斥候をはなって敵情を探ったが、人数千人という噂もあり、さらに数万の後続部隊が来る、という噂もあって、どうもよくわからない。
いずれも、近藤が、村々に向って飛ばした虚報である。
「とにかく、ぶちあたることだ」
と、砲隊長の北村長兵衛が言った。
かくて、北村の砲兵を先頭に勝沼へ向って前進しはじめた。この時代の砲は射程が短いため、軍の先頭を行くのが常識であった。
すでに天は晴れ、山野の雪も溶けはじめている。
勝沼の宿場に入った時、北村長兵衛は大胆にも兵五、六人を連れ、砲二門を急進させて町の中央に出た。
その街道中央に、例の急造の関所がひかえている。守備兵は雨宮敬次朗ら十人ほどの甲州組である。
北村長兵衛は、赤毛のシャグマタをなびかせて、柵に歩み寄った。
「この天下の公道に、柵をもうけさせたのはたれかね。ひらきなさい」
時候の挨拶でもするように、ゆっくりと言った。
柵内では雨宮が進み出て、
「開けるわけにはいかぬ」
にべもなく言った。
「おうや、なぜだろう」
「隊長の命でここを守っている。隊長の命がなければ開けられぬ」
「隊長の名は、何という」
「知らぬ」
「そうか、ではやむを得ぬ」
北村はうしろの砲に向って、
「射うち方用意」
命じすてて左側の旅籠の軒下に飛び込むや、射て、と命じた。
轟ごうっ
と、四斤山砲が火を噴いた。
発射煙がしずまった時、すでに柵内には人がなく、はるかむこうを雨宮敬次朗ら十人がころぶよう逃げていた。砲弾はその頭上をこえて、むこうに炸裂さくれつした(雨宮はどいうやらこのまま逃げっ放しで横浜へ行ったらしい)
柵をひらいて北村らが飛び込み、勝沼の宿場じゅう捜索したが、もう敵兵はひとりもいない。
宿場の者に聞くと、
「守兵はあの連中だけだった」
という。
この勝沼での発砲が、東征軍の最初の砲声だったことになる。
谷守部がやって来て、
「敵は柏尾山にいる。この勝沼を前哨ぜんしょう線として柵を作ったのだろう。それが十人そこそこの人数だったとすると、柏尾の本隊の人数はその二十倍もあるまい」
そう計算した。ほぼ的中している。
即座に、前進した。 |