~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
流 山 屯 集 (二)
このころ、前将軍慶喜は上野寛永寺に蟄居ちっきょして月代さかやきらず、ひたすら謹慎恭順の態度を持していた。
幕下の抗戦派に不穏の多いときき、しばしさとし、江戸城決戦論の首魁しゅかいと思われる海軍の榎本武揚えのもとたけあき、陸軍の松平太郎に対してはわざわざ召致して、「そちらの言動は、予のこうべやいばを加えるのと同然である」と思いとどまらせた。
しかし。、旧幕臣有志の動きは、前将軍の説論ぐらいでは押さえ切れず、すでに先月十二日、十七日、二十一日の三回にわたる幕臣有志の会合の結果、彰義隊が生まれつつある。
前将軍慶喜は、これら徳川家臣団の動きに対して、
「無頼の壮士」
という言葉を使っている。(高橋泥舟への談話)
一方、官軍に対し江戸攻撃の中止を嘆願するため、さまざまの手をうっていた。
勝海舟、山岡鉄舟が、慶喜の意をうけて官軍慰撫いぶの工作にとりかかったのも、このころである。
一節では、近藤勇に対し、幕府の金庫から五千両の軍資金を与え、砲二門、小銃五百ちょうを貸与して「甲陽鎮撫隊」を組織させ、甲州百万石の好餌こうじを与えて勇躍江戸を去らしめたのも、勝の工作だという。
「新選組に対する薩長土の恨みはつよい。あの連中が、前将軍への忠勤々々といって江戸府内にいるかぎり、官軍の感情はやわらぐまい。追いはなつにかぎる」
ということだったらしい。
考えてみれば、話がうますぎた。窮乏しきっている旧幕府から五千両の大金がすらりと出たというのもふしぎだし、「甲州百万石うんぬん」というのもそう言質げんちを与えれば近藤が喜びそうだ、ということを、慶喜も勝も知りぬいていたのであろう。
旧幕府にとって、いまは、新選組の名前は重荷になりつつある。近藤、土方を幕下にかかえている、というだけで、徳川家、江戸城、さらには江戸の府民がどうなるかわからぬ、ということさえいえそうである。
 
もっとも、余談だが。
明治九年、歳三の兄糟谷良、おい土方隼人はやと、近藤の養子勇五郎らが、高幡たかはた不動境内(日野市)にこの両人の碑をつくろうとし、撰文せんぶん大槻磐渓おおつきばんけいに依頼し、書を軍医頭松本順にたのんだ。日ならず、文章と書は出来た。
ただ碑の篆額てんがくの文字を徳川慶喜に頼もうとし、旧幕府の典医頭だった松本順が伺候し、家令小栗尚三を通じて意向をうかがったところ、慶喜は往事を回想するように顔をあげ、
「・・・・」
と両人の名をつぶやいて、書くとも書かぬとも言わない。
家令小栗がかさねて言うと、
「近藤、土方か。──」
とふたたびつぶやき、せきあげるようにして落涙した。
「御書面(碑文の草稿)をそのままご覧に入れさうらふところ、くりかへし御覧になられ、ただ御無言にて御落涙を催され候あひだ、御揮毫ごきがう相成り候やいなや、伺ひあげ候ところ、なんとも御申し聞かせこれなく、なおまたその後も伺ひ候ところ、同様なんとも御申し聞かせこれなく」
と、家令小栗尚三が、松本順に送った手紙にある。
要するに、何度催促しても落涙するばかりで、ついにいやとも応とも言わなかった。
慶喜の落涙を察するに、譜代の幕臣の出でもないこの二人が最後まで自分のために働いてくれたことに、人間としての哀憐あいれんの思いがわき、思いに耐えかねたのであろう。同時に、彼らを恭順外交の必要上、甲州へ追いやったことも思い合されたのかも知れない。
揮毫を断わったことは、慶喜の維新後の生活信条による。このひとは、生涯しょうがい、世間との交渉を絶って暮らした。
なお篆額の揮毫はやむなく旧京都守護職会津藩主松平容保かたもりが引き受け、碑は明治二十一年七月完成、不動堂境内老松の下に、南面して立っている。
2024/05/05
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