このころ、前将軍慶喜は上野寛永寺に蟄居して月代さかやきも剃そらず、ひたすら謹慎恭順の態度を持していた。
幕下の抗戦派に不穏の多いときき、しばし諭さとし、江戸城決戦論の首魁しゅかいと思われる海軍の榎本武揚えのもとたけあき、陸軍の松平太郎に対してはわざわざ召致して、「そちらの言動は、予の頭こうべに刃やいばを加えるのと同然である」と思いとどまらせた。
しかし。、旧幕臣有志の動きは、前将軍の説論ぐらいでは押さえ切れず、すでに先月十二日、十七日、二十一日の三回にわたる幕臣有志の会合の結果、彰義隊が生まれつつある。
前将軍慶喜は、これら徳川家臣団の動きに対して、
「無頼の壮士」
という言葉を使っている。(高橋泥舟への談話)
一方、官軍に対し江戸攻撃の中止を嘆願するため、さまざまの手をうっていた。
勝海舟、山岡鉄舟が、慶喜の意をうけて官軍慰撫いぶの工作にとりかかったのも、このころである。
一節では、近藤勇に対し、幕府の金庫から五千両の軍資金を与え、砲二門、小銃五百挺ちょうを貸与して「甲陽鎮撫隊」を組織させ、甲州百万石の好餌こうじを与えて勇躍江戸を去らしめたのも、勝の工作だという。
「新選組に対する薩長土の恨みはつよい。あの連中が、前将軍への忠勤々々といって江戸府内にいるかぎり、官軍の感情はやわらぐまい。追いはなつにかぎる」
ということだったらしい。
考えてみれば、話がうますぎた。窮乏しきっている旧幕府から五千両の大金がすらりと出たというのもふしぎだし、「甲州百万石うんぬん」というのもそう言質げんちを与えれば近藤が喜びそうだ、ということを、慶喜も勝も知りぬいていたのであろう。
旧幕府にとって、いまは、新選組の名前は重荷になりつつある。近藤、土方を幕下にかかえている、というだけで、徳川家、江戸城、さらには江戸の府民がどうなるかわからぬ、ということさえいえそうである。 |