~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
げい べつ (一)
下総流山は、江戸からみれば鬼門の方角にあてっている。
(歳もよりによって江戸の鬼門に陣所を設けなくてもよかろう)
近藤は縁起をかつがない男だが、松戸から流山への馬上、の妙にそのことが気になった。
街道は狭い。馬一頭がやっと通れるほどの道で、道の両脇りょうわきにタンポポが咲いている。
「ひと茎、折ってくれ」
と、馬丁の忠助に頼んだ。
忠助が走って行って一茎を手折たおり、近藤に手渡した。
眼に痛いほど黄色い。
「・・・・」
近藤はそれを口にくわて、馬にゆられて行く。茎の汁がわずかににがいようである。
「忠助、この土地をどう思う」
「広うござんすねえ」
馬の口をとりながら、下総の野の真中で肩をすぼめた。山のない広い野というものは変に気おくれがするものだ。
田園のあちこちに榛の木が植わっている。変化と言えばかろうじてそれである。

流山の町の中に小高い丘があり、地名はそこから来ているのであろう。
町の西に、江戸川が流れている。行徳ぎょうとく関宿せきやど、上下利根川筋への舟つき場でもある。
「蚊の多い町だな」
馬上の近藤の顔に、蚊がむらがっている。
蚊の多いのは、水郷、ということもある。しかしなによりもこの町は、酒、味醂みりんの産地で、町中いたるところに大きな酒倉がある。酒倉の甘さを喜んで、蚊がわくのに違いない。
近藤は、この土地で、
「長岡の酒屋」
と称されている大きな屋敷(現在、千葉県流山市酒問屋秋元鶴雄氏)の門前で馬をおりた。
関札がかかっている。
「大久保大和宿」
とある。歳三がかけたものだろう。
土地の世話役が挨拶に来て、それらがひとわたり帰ったあと、
「歳、大きな屋敷だな」
と、近藤が、開け放った障子の向うを見た。
邸内は三千坪はあろう。その中に、板張りの倉庫が幾棟かならんでいる。
「蔵はいくつある」
「三棟ある。一棟百五十坪から三百坪ほどもあるから、兵を収容するのにいい。向うの一棟、これは中二階がついているのだが、それをあけてもらった」
兵舎にはうってつけの建物Dせある。
「しかし、歳」
近藤は、手の甲の藪蚊やぶかをびしっとたたいて、
「蚊の多いところだねえ」
物憂ものうそうに言った。
「この辺ではもう蚊帳かやをつっている。酒を食らって育った蚊だから、江戸の蚊の二倍はあるよ」
と歳三は勢いよく右頬みぎほおを叩いた。
ぴちっ、と皮膚に小さく血がはねている。それを近藤はまじまじと見ながら、
ちぶれたものだな」
と苦笑した。新選組も、いまはこの草深い川沿いの町の藪蚊に食われている。
ソレがおかしかったのだろう。
兵は、予想以上に集まった。
ざっと三百人。むろん、付近の農村の若者である。おのおの苗字みょうじを名乗らせ、銃器を与え、大小を帯びさせた。
歳三は、一同にミニエー銃の射撃操作を教え、近藤は、斬撃ざんげき刺突の方法を教えた。
三百年、眠ったように静かだったこの郷が、にわかに騒然としてきた。
毎日、射撃訓練の銃声が聞え、近藤のものすごい気合が、「長岡の酒屋」から聞えて来て、郷中の者はおそれて近寄らない。
「歳、官軍が江戸を包囲している」
と言ったのは、戊辰ぼしん三月十五日のことである。
2024/05/09
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