~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
げい べつ (二)
官軍大総督府は、すでに東海道の宿々しゅくじゅく鎮撫ちんぶして、駿府すんぷにある。
さらに、近藤らを甲府から追った東山道先鋒せんぽう部隊は、土州藩士板垣退助に率いられて、三月十三日、板橋に到着し、江戸攻撃の発令を待った。
江戸攻撃の予定日時は、早くから三月十五日早暁そうぎょうと決められていた。
ところが、官軍の薩人西郷吉之助と幕人勝海舟との間で江戸城の平和授受の話合いが進み、攻撃は無期延期になった。
江戸の治安は勝に一任されることになり、官軍はその周辺に駐屯した。
最大の兵団の一つは、板橋を本営とする東山道先鋒部隊である。
「流山に、幕軍がいる」
とわかったのは、三月二十日すぎである。
密偵みっていをつかって調べさせると、兵数はほぼ三百、すべて農兵である。
ただ指揮官の服装からみて、旗本らしい。首領の名は、」大久保大和。
「それァ、甲州でやったあいつじゃないか」
と、参謀筆頭の板垣退助が言った。例の武監には載っていない幕臣の名である 。
「近藤だな」
そういう観測が、一致した。
というのは、この東山道部隊が、甲州勝沼で大久保大和を破ったあと、甲州街道を進撃し、去る十一日に武州八王子の宿に入り、同宿横山町の旅籠「柳瀬屋」を板垣退助の本営として、敗敵の捜索を行なった。
「このあたりは新選組の発祥の地だ」
ということは、官軍の常識になっている。
とくに、天然理心流の保護者であり、歳三の義兄に当たる日野宿名主佐藤彦五郎家に対する詮議せんぎは厳しかった。
この一家は、官軍来襲とともに逃げ、やがて四散してそれぞれ多摩一帯の親類を転々としていたから、容易に所在がつかめない。
彦五郎の子佐藤源之助(昭和四年没、八十)はこの当時十九歳で、他人の撃剣道具から感染した疥癬かいせんをわずらい、歩行困難にまで病みおとろえていた。
いったんあわ親戚しんせきへ落ち、さらに隣村宇津木うつぎへ山越えして逃げ、農家の押入れに隠れているところを官軍の捜索隊に発見された。
八王子の本営で、取調べをうけた。
要するに、父佐藤彦五郎の行方が、尋問の焦点である。源之助は、知らぬと言った。
吟味役は、三人で、そのうちの二人はひどい薩摩訛さつまなまりでよくわからなかった。あとの一人の言葉だけはわかった。土佐藩の谷守部である。
谷の取調べは執拗しつようをきわめた。谷にしろ参謀筆頭の板垣にしろ、土佐藩士は新選組に対し、異常なほどの憎しみをもっていた。京都で同藩の者が、多く、新選組のために命を失っている。とくに、坂本龍馬を暗殺したのは新選組だと彼らは信じていた。
「そちの父、彦五郎はどこにいるか」
というのが、質問の第一項である。彦五郎を探し出すことぬよって、近藤と土方の所在を知ろうというのが目的であった。
尋問の第二項は、「彦五郎と近藤勇、土方歳三はどんな関係か」。第三項は「日野宿における銃器の有無。第四項は「日野宿および付近一帯の住民は、かつて近藤勇から剣法を学んでいたというが、その術者の人数」とおうものであった。
その四ヵ条をくり返し質問し、その後は納屋なや監禁かんきんし、翌日午後、奥庭のムシロの上に坐らされた。
源之助遺話・前の障子が左右にあいて、ひとりの威儀厳然たる男があらわれた。番兵が小声で、頭を下げよ、という。謹んで敬礼をした。この人物が板垣退助であった
板垣は、源之助を病人とみて、さほどの尋問はしなかった。ただ、
「大久保大和、内藤隼人は、出陣にあたってそちの家で昼食をとり、郷党を引見したというのはまことか」
と言った。
同じ質問を、昨日もされた。そのときは、「近藤、土方は」という問い方だった。
今日は、「大久保、内藤は」という名前を、板垣はさりげなく使った。源之助はつい釣り込まれて、そうです、と答えた。
これで、この変名の主が何者であるかが官軍にわかった。
2024/05/11
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