~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
げい べつ (三)
それが、流山に布陣しているという。
板橋の官軍本営では、色めきたった。この東山道先鋒軍が、もし土佐兵を主力にしていなければ、あるいはこうも沸きたたなかったかも知れない。
「京の復讐ふくしゅうをやろう」
という昂奮/rb>こうふんが、営中に満ちた。
官軍の副参謀格で、御旗扱/rb>おはたあつかいという役目についている者に、
香川敬三
という人物がいた。元来は水戸藩士だが、京都相国寺詰めとなり、長州、土州の過激志士とさかんに交通していたが、やがて脱藩し、土佐藩の浪士隊である陸援隊に投じた。
陸援隊の隊長は、海援隊長坂本竜馬とともに横死した中岡慎太郎である。
中岡の死後、隊の指揮は土州脱藩田中顕助(のちの光顕、伯爵)がとり、香川は副長格になり、鳥羽伏見の戦いの時は、討幕軍の別働隊として高野山に布陣し、紀州藩のおさえになった。
香川は維新後はもっぱら宮廷の諸職をつとめ、最後は皇太后宮大夫/rb>こうたいごうぐうのだいぶ、伯爵、大正四年七十七歳で死没。
狐の香川、という仇名があり、性格に陰険なところがあって、幕末からずっと一緒だった同志の田中光顕でさえ、維新後折合いが悪くなり、田中は香川が死ぬまで口も利かなかった。
その香川が、
「新選組討滅の隊に加えてもらいた。中岡のあだむくいるためだ」
と、板橋の本営に願い出た。願いとしてはもっともである。
が、この鉢/rb>はちびらき金つぼまなこの男には、隊の指揮というものが出来ない。
薩人有馬藤太(副参謀、のちの純雄)が兵三百を率いて討伐に向かうことになり、香川はその部隊付として参加した。
有馬隊が、その宿営地の千住を出たのは、四月二日早暁である。
有馬は、この千住付近に、流山からしきりと密偵が入り込んでいることを知っている。
だから、自軍をあざむき、兵には、
古河こがへ行く」
と告げ、その夜は千住どまり、その翌日は粕壁かすかべ(現在、春日部市)に泊まった。
その翌日、にわかに軍を反転させて南下し、やがて利根川の西岸へ来た。
兵が驚いて訊ねると、有馬は対岸の流山を指し、
「あれを攻撃する」
と言った。
すぐ近在の農家、漁家からありったけの舟を集めて、神速に川を渡り、土手下に集結した。
朝、九時頃である。
2024/05/12
Next