~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・下』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
げい べつ (四)
流山の聚落しゅうらくから、その模様を先ず知ったのは、町の西方を警備していた数人の兵であった。
早速、射撃した。
が、射程が届かず、しかも官軍側は静まりきって、一発も撃ち返してこない。
「歳、銃声だな」
と近藤が言った時、警戒兵が走り込んで来て、敵が来襲した、と言う。
「よし、見て来る」
と歳三は厩舎きゅうしゃへ走って行って、馬に乗るや聚落の中の狭い道をあちこち乗りまわしつつ、西の町のはずれに来た。
(なるほど)
はるか土手のあたりの民家のかげに、官軍の影がしきりと出没している。
人影五百、とたしかめ、むしろこちらから急襲すべく本営に駈け戻った。
「みな、本陣の庭に集まれ」
と怒鳴った。
すぐ近藤の部屋の障子を、縁さきから手をのばしてあけた。
「どうした」
歳三は驚いた。
近藤は、平服に着替えてしまっているのである。
「歳、官軍の本陣まで行って来る。われわれは錦旗きんきに手向かう者ではない。ということを釈明しに行く」
「あんた、正気か」
「正気だ。ここ数日、考えた。どうやらこのあたりが、峠だよ」
「なんの峠だ」
近藤は答えない。答えれば議論になることを知っている。
近藤は、白緒の草履をはいた。
「話せばわかるだろう」
近藤は、官軍をあまく見ていた。まさか、新選組局長近藤勇の正体がばれていようとは想像もしていない。
流山屯集部隊は、要するに、利根川東岸の治安維持のために駐留している、と申し開きすればよい。
不都合である、と官軍が言えば、解散させるまでで、それ以上のきびしい態度を官軍がとるとは思われない。」
なぜならば、江戸府内の治安維持についても、官軍は彰義隊を半ば公認し、それに一任しているかたちなのである。
(流山屯集隊も同じではないか)
だから近藤はあまく見た。
「よせ」
と歳三は言った。
わな・・にかかるようなものだ」
「いや大丈夫。それに歳」
と近藤は言った。
「わしは長い間、お前の意見をたててきた。しかしここはわしの意思どおりにしてもらう」
近藤は微笑している。その笑顔は歳三がかって見たことのない安らかなものだった。
「すぐ、戻る」
近藤は、部下二人を連れて門を出た。
2024/05/12
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